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夕食が終わり、灯は部屋に戻って女学校の宿題を始めた。
卓上の淡い緑のガラスのランプに火を灯し、その熱を頬にじわりと感じながら、帳面を開き、教科書を片手に鉛筆を走らせる。
英語の辞書は元家庭教師の置き土産だ。
灯と兄を見てくれていた元家庭教師のトンプソン夫人は昨年、ご両親の体調不良がわかり、英国へ帰ってしまったが、まだ学生の灯の勉強を世話できなかった心残りからか、帰国後、頻繁にエア・メールをくれる。
トンプソン夫人のおかげで、灯は苦手だった英語が得意になった。とはいえ、女学校の宿題の量は多く、毎日教科書の例文の翻訳にたっぷり二時間はかかってしまう。
ようやく鉛筆を置くと、机の傍らに置いてあった風呂敷包みを解き、今度は裁縫の授業で終わらなかった刺繍半襟を取り出した。
友人の遠藤亜矢子などは、まるで糸が意志を持っているかのように、すっすと花の形が縫いあがるのに、灯は花を縫っても毬のように丸くもつれてしまう。
ほどいて縫い直し、パチンと糸切狭で最後の刺繍糸を切ったとき、ボーンボーンと階下の柱時計が夜の十時を告げた。
灯にはまだやらなければならないことがある。週末に決行、と誓った逢引きの準備だ。
墨と硯、筆を揃えて手紙を書く。
「親愛なる 華原雪子お姉さま江
毎日お勉強お忙しいなかとは存じますが、
お伝えしたいことがございます
来たる土曜日、夜八時、目黒不動へお越しくださいませ」
女学校では、先輩に告白し、「私のお姉さま」になってもらうのが流行っている。
人気の先輩は、毎日のようにフアン・レターをもらい、菓子やら詩集やらを渡そうとする後輩の列が途切れない。
手紙の相手、華原雪子は子爵令嬢でスポーツ万能。
すらりとした手足と夜の帳のような黒髪、何より肌の白さと少し冷ややかな眼差しなのだが、お話をするときのにこやかさと鷹揚な態度に人気が集まっている。
灯のクラスでも雪子のフアンを公言する生徒は両手では足りない。
こんな手紙を書いて逢引しようというのだから、灯も雪子にお熱なのかというと、実はそうではない。
手紙の最後に付け加えるのは、
――「遠藤亜矢子」
親友の名前であった。
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