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厨房を覗くと、土間を何か小さな生き物が駆け抜けていく。
「ほら、こっちに来い!」
ぱっと梁に手を伸ばしたのは垢じみた顔の青年で、その直後には彼の筋ばった腕の中で目をまん丸にし、身を固くしている三毛猫がいた。
「あら、チョビ助!」
灯が猫の名前を呼ぶ。鼻下に黒いぶちがあるので、チョビ助、と名づけられた三毛猫は、河野の家の人気者だ。
普段は父の書斎で寝そべったり、二階の座敷で遊んでいることが多い。
厨房に入ると怒られるので滅多に近づかないし、初見の人間に抱かれることも滅多にないのだが、今は何故だか青年に大人しく抱かれている。
「まったく! 何が匂ったんだか知らねえが、厨房に猫はご法度だ。今すぐ廊下に出しな」
豊作の太い声が、びいんと厨房の壁を揺るがす。
青年は押し黙ったまま、猫を灯たちの方へ連れてきた。猫は音もなく床に降り、少年の足元に身を擦りつけている。
初対面の挨拶を交わすには、これでは間が悪すぎるが、灯は精一杯明るい顔を作ってみせた。
「新入りさん、こんにちは。チョビ助ともども、これからよろしくお願いしますね」
「袖、危ないですよ」
青年がぶっきら棒に告げると同時に、三毛猫がさっと袂に飛びかかる。
「きゃあ」
スミが叫び、灯がそれっと三毛猫を捉えようとしたが、寸でのところで取り逃がした。
猫はあっという間に厨房をぐるっと駆け抜け、勝手口から裏庭へ飛び出してしまった。猫が蹴り飛ばした粉袋が倒れ、もうもうと粉塵が舞う。
「んもう」
粉が目に入って苦しむ灯を見て、青年はぷっと噴き出したが、じろりと豊作に睨まれると、さっと口元を覆った。
「挨拶しろ。こちらは河野灯様。この家のご長女だ」
「雷電佐太郎です」
青年は埃と垢にまみれ、断髪の髪もいつハサミを入れたのかというほど乱れて長い。
一見、貧しい家の出なのかと思いきや、着物は古びてはいるが上質な紬だった。
背丈は灯よりも拳ひとつ高いくらい。
痩せた喉に、大きな喉仏が浮いている。切れ長の瞳は青黒く澄んでいて、どこか挑戦的に灯を見返していた。
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