甘酒

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 姉弟がまつり見物にそろって出かけるのは、思い返せば、子どもの時分以来のことであった。  姉が先をゆき、ひとごみの中から急かすように振り返る。マフラーに顔をうずめながら、弟を待っている。そんな姉の姿は弟の脳裏に子どもの頃の記憶をよみがえらせた。 「ほら見てよ。あの熊手には七福の神様が乗っているわ。宝船というのよ」  まだ少女だった姉が宙を指した。弟が指の先に目をやると、おかめや小判、俵や赤鯛にいろどられた大仰なかざりがいくつも宵闇に浮かんでいた。市は参道にそってどこまでも続いた。屋台から、行き交う人々の口から、厳かな歌が聴こえた。前をゆく姉も口ずさんでいた。軒先のちょうちんの灯りに不思議なくらい合っていたように思う。  当時も姉は男を振ったばかりだったと記憶している。憂さ晴らしなのか、それともたんなる気まぐれなのか、姉は弟を連れ出した。はじめはしぶっていた弟も甘酒を買い与えられ、機嫌をよくした。香りのよい、どろりとした感触が口内に広がり、冷えたからだを温めた。姉は、マフラーに顔をうずめながら、通りをながめていた。時おり、感情がせり上がるのか、ひとり言をつぶやいた。ひとごみに向かって、歌っているようでもあった。 「世の中、ロクな男なんていやしない。男日照りというのよ」 「なんだい、それは」弟には言葉の意味がわからなかった。「おれがいるじゃないか」  姉は笑った。ようやく、笑った。「ばかね、もっと下品な意味よ」  今宵も市が立っている。  境内におわす神様に縁結びのご利益があるのかどうか、弟にはわからなかったが、誘ったのは弟の方だった。  振り返った姉に弟が笑いかける。 「ねえさん、甘酒を買ってあげるよ」  姉はマフラーから顔を出し、一瞬、口を開きかけた後で、笑い出した。 「そうね。飲もうかしら。たっくさん、飲もうかしら。これって、やけ酒というのよ」  白い息が弾む言葉を追いかけた。
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