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試験期間が終わり、夏休みが間近に迫ってきている。浮き足立つ学生たちの中で、僕の気は重かった。
「おはよう。将輝くん」
僕は京子の挨拶に目も向けず、参考書を読み続けた。彼女は何も言わず、ドアを挟んだ向いに立った。見られているのを感じる。僕は参考書を握りしめた。
「……うるさい」
「え?」
「僕に関わってくるのをやめろよ」
顔を上げなくても戸惑っているのが伝ってくる。
「勉強に集中できないんだよ」
「え、え?」
「君がいなかったときは電車の中でも集中できてたんだ。なのに毎日話しかけてくるから」
「あ、ごめん。うるさかったよね。私のことは気にしなくていいから。毎日会えるだけで幸せなの」
彼女の笑顔は崩れているのだろうか。心臓がぎゅっと締め付けられる気がした。でも僕の口は動き続ける。
「違う。もう会いたくないんだ。挨拶されるのも面倒臭い。僕の今回の順位を知っているか?10位だよ」
「すごい!」
彼女の声が明るいのが苛立った。すごい?どこが?
「すごくない!落ちたんだよ、成績が!」
僕は入学以来1位を死守していた。なのに今回のテストでは知らない奴に抜かされた。
『都くんに勝っちゃった』
『こんなミス珍しいね』
『恋愛に現を抜かしてるからじゃね』
『あの女子高の子か』
『彼女もいいけど勉強を疎かにするなよ』
先生たちや同級生から何度も声をかけられた。日頃は話しかけてこない癖に、こんな時だけ親しげに喋ってきたのだ。無神経な彼らに苛立つと共に、母さんに『仕方ないわよ。調子が悪かったんだから』とフォローさせてしまったのが申し訳なかった。
「最悪だ」
「調子悪い時もあるよ。試験期間中、ずっと体調悪そうだったし。無理しすぎたんじゃないかな」
「そんなことない。ずっと同じように勉強していた」
勉強時間も場所も方法も何一つ変えていない。変わったのはただ一つ。中山京子の存在だった。突然現れて、僕の生活を崩した。
「だから2度と僕の前に現れないでくれ」
「そんな」
彼女の声は涙混じりだった。もしかしたら泣いているのかもしれない。罪悪感が急に襲いかかる。京子の涙を拭き取りたい。今の言葉を無かったことにしたい思いに駆られた。
『将輝が賢いなんて……お母さんの誇りだわ』
昔言われた言葉を思い出して、僕は拳を握りしめた。駅を知らせるアナウンスが鳴っている。
「ほら着いたよ。じゃあ、さようなら」
彼女の体が動き、すぐに止まった。振り返ったのだろう。
「将輝くんはすごいよ。何か一つのことを頑張れることも、人の期待に応えようとするところも……そして、車両を変えたら私のことなんて避けられるのに、ちゃんと直接言ってくれるところも」
彼女の足音は離れ、電車のドアが閉まりはじめた。誰かが駆け込み乗車をしたようで、もう一度ドアが開く。
「今までありがとう!将輝くん!」
今まで通りの明るい声が響いた。何駅か過ぎて、やっと顔を上げると、ナデシコの髪飾りが電車に残されていた。
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