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ただいま
クラウルの家は都内のマンションだ。
一人暮らしの部屋は案外物が多く、どれも柔らかい色合いが多い。
食事の後、泊まる事になっていたので二人で帰宅するとその玄関先に小さな影があった。
「ニィ」
「ただいま、ニィ」
気づいて手を伸ばしたゼロスの手に、まだ小さな子猫が頭をすり寄せて甘えてくる。
この子は以前二人で見つけた子猫だ。茂みの中で一匹で震えて小さくなっていて、周囲に他の兄姉猫や親猫は見当たらなかった。このままでは死んでしまうと思い保護し、今はクラウルの部屋で飼われている。
久しぶりの再会が嬉しくて抱き上げても、ニィは嫌がったりはしない。それどころかゼロスの腕の中で甘えながら、ジャケットのファスナーにじゃれついている。
白い手がカチャカチャしているのを見ると癒しだ。
「随分人懐っこいよな」
「いや、お前だからだな。案外臆病で宅配とかだと出てこない」
「そうなのか?」
それはそれで嬉しかったりする。
ニィがいるからか、クラウルはこの時期部屋の床暖を付けて出るらしく、室内はほんのりと暖かい。明かりをつけてソファーに座って更に相手をしていると、クラウルが隣に腰を下ろした。
「お前、そんなに猫が好きだったか?」
「特別好きなわけじゃないけれど、動物は好きだ。昔は馬の世話をよくしていたな」
寄り添ってくれる温もりにほっとする事がある。優しさを向けると優しさを返してくれる事がある。そんな些細な事が嬉しかったりするのだ。
クラウルの手が伸びて、そっと小さな頭を撫でる。ニィはそれにも頭をすり寄せて近寄り、小さな声で鳴いた。
「俺は動物を飼った事などないから、何だか不思議な気分だ」
「ん?」
「見た目がいかついと言われるし、今でも睨まれているように見えるらしい。だから、動物も怯えるかと思っていたんだがこいつはまったくだ」
「そりゃ、世話してくれて命の恩人だしな」
ニィにとってクラウルとゼロスは命の恩人だろう。冷たい雨の中、ずぶ濡れだった小さな命はあのまま放置されては死んでいた。実際ここへ連れてきても数日は弱ってあまり餌も食べなかった。学校終わりに通っては少しずつ餌を与え、トイレの世話もしたものだ。
ふと、ニィを見るクラウルの表情が優しい事に気づく。纏う空気が柔らかく温かなものになり、視線が穏やかになる。
こういう顔を見ると、ゼロスはほんの少し後悔もする。それは前世の事だ。
「どうした?」
「え?」
「浮かない顔をしている」
「あぁ……いや」
歯切れ悪く答えると手が伸びて触れてくる。気遣う視線と動きに今度は溜息をついた。
「どうしようもない事を思っただけだ」
「ん?」
「……あんた、子供好きだろ」
「嫌いではないが」
「前世で俺は、あんたが父親になる機会を奪ったのかもしれないと思ったんだ」
分かっている、答えなんて。「そんなことはない」というのだろう。
けれどふと、その可能性はよぎるのだ。良家だし地位もあり、何よりいい男だ。機能としても充実していた。そして、この人は案外温かい人だ。
子供が好きなら、いつかは家庭をと思ったかもしれない。恋人がゼロスでなければあるいは。そんな事を思うのだ。
手が頬に触れて、近づいてくる。触れる唇は薄いのに案外柔らかく、心地よく甘やかしてくる。
「お前でなければ意味がないだろ」
「……か」
「あぁ」
結局この結論を聞きたかっただけかもしれない。
それに今世ではゼロスの覚悟次第で叶えてやれるのだ。この人の子を産む事ができるのだから。
「それにしても、そんな事を考えていたのか?」
「まぁ、多少は」
「俺の家族もお前には感謝していただろ? 前世の俺はそもそも恋人なんて作るつもりはなかった。それどころか仕事人間過ぎて、どこかで人知れず死ぬんだろうと思っていたんだ。それが無事に定年までやりきったんだ、十分だ」
確かにライゼンには折に触れて「ありがとう」と言われてきた。クラウルは仕事以外の時間は穏やかで出かける事も多かった。結婚して二人の時間が多くなるとそれだけ色々な夢を語って、実際いくつかは実現した。
年に一回、結婚記念日の旅行もその一つだった。
「……旅行、トラウマだな」
「ん?」
「船は今世は乗りたくない」
「あぁ」
思わず呟いた言葉にクラウルは苦笑して頭を撫でる。その表情が困った様な優しいものであるのが少し癪に障る。
前世の二人の死因は海難事故によるものだ。この時既にいい年だった事から二人で話し合い、子供や若者、夫婦などに救命ボートの順番を譲り出来る限り助かるようにとあれこれ手を尽くした。
これについてなんら後悔はないし、寧ろ褒めてやりたいとは思う。だが、クラウルを巻き込んで死んだ事には罪悪感もある。同時に言いたいこともあるが。
「クラウルは後悔とか無かったのか?」
「後悔?」
「旅行、初めての国外で楽しみにしていたし、俺が子供を助けたいなんて言わなければ大人しく二人で救命ボートに乗ったのかなと思ってさ」
元騎士の正義感というか、義務感みたいなものが咄嗟に出た。平民の子だからとまだ幼い子供を差し置いて老い先短い自分が助かろうなんて考えも起こらなかった。
結果、二人とも助からなかったが。
手が伸びて頬に触れ、上向かせる。優しい視線に穏やかな表情を見ていると許される気がした。
「あの時はあれが正解だったし、お前が言わなければ俺が言っていた。俺に何か後悔があるとするなら、お前を助けてやれなかった事だ」
「俺は助かりたいなんて思ってない。それに、守ってくれただろ?」
最後の時、装飾品だった銅像が倒れてきてそいつが持っていた剣に貫かれようとした時、クラウルはしっかりゼロスを庇って抱え込んでくれた。結局勢いもあって剣は二人を刺し貫いてしまったが、結果的にはこの人の腕の中で最後の息を引き取った。最後まで感じていられたのだ。
「あんたはどんなに年を取っても、世が変わっても格好いい俺の恋人だ」
自然と愛しさが込み上げ、顔を見るだけでほっとする。ただ側にいるだけで落ち着く相手。
見つめる先のクラウルは驚いた様に目を丸くし、次には赤くなっていく。そしてガバリと抱きしめられたと思えば口腔を貪るようなキスをされた。
「んぅ! ふぅ、んぅ……んっ!」
舌が触れるだけで気持ちよさと安心感で力が抜ける。圧倒的な多幸感に支配されてしまう。ハイスペックオメガはアルファのフェロモンへの耐性も高いが、運命の番に対しては弱い。身も心も委ねていいんだと本能が感じてしまったら抗えなくなる。
「あ……ふぅ……」
熱い舌が優しく触れて吸われて、思考が止まり気持ちよさに震えた。
唇が離れて首筋に触れる。その感触に背がゾクゾクと震えて…………ハッとしてクラウルの頭を押しのけた。
「まった!」
思い切り押しのけたものだから流石に離れ、クラウルは大層不満そうな顔をしている。だがこればかりはゼロスが正しい。
「未成年オメガに対する性的行為は法に抵触するだろ! 規範にならなきゃならないあんたが犯すな!」
「……ちっ」
「舌打ちしてもダメだからな」
まったく、油断も隙もない。危うく全部を委ねてしまいそうになって焦った。
まぁ、既に両家交えて顔合わせも終わり、そこで高校卒業後は同棲を始め、成り行きによっては結婚という流れでとなっている。今ここで番契約が行われようとも少し予定が早まったくらいの認識なんだろう。
だが公安勤務のクラウルが法に触れる行いをするのを黙ってみているのはゼロスが許せないんだ。
「お前は相変わらずお堅い」
「あんたは少し反省しろ」
「どうせカラーの鍵がないんだ、番に出来ないんだからいいだろう」
「万が一子供でも出来たらマズいだろうが」
番契約を結んでいない状態だし、抑制剤も飲んでいる。何より今はヒートの時期じゃないからほぼ無いと言えるが、絶対ではないんだ。
それでもクラウルは不満そうだ。そして突然動いた事で居心地のいい場所を追われたニィも不満そうな様子で尻尾をブンブンしている。
なんだか困った奴が二人、どことなく似ている様子にゼロスは笑った。
「卒業したらいくらでもいいし、番にもなる。もう少し待て」
「長い」
「この後の俺の人生全部をやるって言ってるんだ、もう少し待てよ」
この世界は前世よりも平和で、医療も何もかもが発展している。前世では治せなかった病気が治って平均寿命も延びている。
何より二人の気持ちが形となる。この人の腕に我が子を抱かせてやる事もできるんだ。
「俺の人生をあんたにやる。あんたの人生を俺にくれ。そして、二人で前よりももっと幸せになるぞ」
まだまだこれから。でももう少しもどかしい、恋人の関係のままでいたいんだ。
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