ひび割れた夢

2/2
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 ——。  いつもと様子は違っていた。そこは、良く見知った道であった。幼稚園や保育所、それに小中学校の隣接した道の曲がり角、他に人影は無く、空は赤黒い色に染められている。風が冷たい。一体どういうことだろうと思って、とりあえず一歩を踏み出してみた。  すると、背後に爆発音が轟いた。慌てて振り返って、見ると——そこにいたのは、数十メートルはあろう巨大な白い鯨。地上にのたうち暴れ回り、粉塵を巻き上げ木々を散らしている。こっちの方へ、来る!  僕は立派な機関銃を肩から掛けて装備する。そうして、奴の巨体に向けて乱射する。が、ちっとも効いている様子は無い。もうすぐに見切りをつけて、逃走を図る。  必死で物陰に身を隠すと、そこでは大沢(おおさわ)という旧友が待っていた。彼は「しっ」と言って人差し指を唇の前に立てた。 「奴に見つかる」 「あれは……」 「見ての通り、巨大な鯨だ」 「何だってあんな……」 「みんな、あいつに喰われちまったんだ。俺たちだけでも、生き残ろう」 「喰われた? ……みんな?」 「そうだ」  鯨はこちらに気がついたらしい。銀色に光る巨大な棘のような歯と真っ赤な喉奥を覗かせながら、のたうち暴れ回り、襲ってくる。僕は闇雲に発砲しながら、逃げ回る他に無い。  ——駄目だ。どうにもしようがない。僕は何も無いところで間抜けに躓き、転倒する。それに気付かず僕を置いて逃げていく薄情な大沢の背に手を伸ばし……  目が覚めた。まだ夜中のようだった。スマートフォンの画面を確認すると『3:11』の表示である。  おかしい、と僕は大粒の冷や汗をかいていた。目を覚ますのと同時に、彼女のことを思い出した。大丈夫、ちゃんと覚えている。それなのに、どうして彼女の夢が見られない? ちゃんと、頭の中に彼女の姿を思い描くのだ。そして、夢を見るのだ。それだけの話。そうすれば、必ず彼女に逢える。僕は目を瞑った。  ところが、驚きと不安とに覚醒した僕は、これからすぐに寝つけるはずもなかった。暫くは目が冴えて、様々な考えがどうどうと巡り……やっとのことで眠りにつくと、気がついた頃にはもう朝だった。随分寝過ごしたらしい。  母親が部屋にひょいと顔を覗かせると、深刻そうに僕に語りかける。 「こんなもの飲んで」  母は、睡眠導入剤の袋を摘んで見せた。 「返せ!」と言って奪い取る。 「そんなに眠れないんなら、ちゃんと病院に行きなさい? 薬はお医者さんに処方してもらいなさい。自分の勝手な判断で飲んじゃダメよ」 「良いんだよ」と言って扉を閉め切ってしまう。雑音はさっさと遮断してしまうのに限る。  それから数日を経ても、彼女は一向に現れなかった。そもそも、夢を見ることさえほとんど無くなった。薬をやめようが、昼寝を試そうが、変わらなかった。たまに大沢が登場するばかりだった。  何だって大沢が! 小学校の、それも低学年の頃の旧友である。学年が一つ違って、家が近所というだけの仲で、引っ越しがあってからはめっきり顔を合わせることもない。そんな縁遠い大沢ばかりが夢に出てきて、彼女の姿はどこにも見つからないのである。  普段の気がかりが夢にあらわれると言うのなら、僕は四六時中彼女ことばかり考えて暮らしている。受験勉強などはとても手につかない。彼女に巡り逢うことだけが、今の僕にとって大事なのだ。  けれども、見る夢のことなので、致し方無い。それからも、碌な夢を見なかった。地震に遭って飛び起きる夢、高い所から飛び下りるが辛うじて滑空できる夢、巨大な風船に取り囲まれて冷や汗をかく夢などを見ては、目を覚ましてからがっかりするのだった。  当然、大学受験に失敗した。周りからは「彼女にうつつを抜かしているからだ」とせせら笑われた。が、実際にはもう何か月も彼女には逢えていないのであった。忘れもしない、あの瞳。さらさらとうねり揺れる長い黒髪、見下ろすようなあの笑み、僕に向けられる愛。僕は彼女を愛して、またそれ故に愛されていた。  高校生活最後の登校日、式を終えてから僕は皆と交わらずに、一人電車に乗って遠くへと出かけた。特段の当ては無かった。ともかく、遠くへ行こうとの考えであった。そうして、帰れなくなったら良いと思った。だから、できるだけ駅名など気にせずに、路線も確認せず、赴くままに乗って降りようと考えていた。  実際良く分からぬ駅に着いて、ここで良さそうだと思って下車した。人の閑散とした、田舎駅であった。俯き加減で、プラットホームをのそのそ歩いていく。  その時、ぷんと良い香りが鼻をついた。僕ははっと顔を上げて、振り向き見ると、間違いない。その後ろ姿は、あの彼女のものに相違ないのである。  夢に見た彼女の姿が、今現実のものとしてそこにあった。僕は追いかけた、が、随分早足である。階段を下りた。すると彼女は売店に立ち止まり、雑誌を購入した。僕は彼女の背後に立って、こちらを振り向いて来るのを待った。  やがて彼女が僕に気がつくと、僕は両手を広げて彼女を迎え入れる体勢を作った。 「探したよ」とその一言を彼女へ投げかけた。 「本当に。ずっと」  すると彼女は晴れがましいのか身をすくめて、それで颯と僕の脇を通りすがろうとする。 「待って」と彼女の肩に手を置く。 「どこに行くの?」 「やめてください」  僕は首を傾げた。僕を睨みつける彼女の瞳は、くすんでいた。何かあったのだろうか、良くないことが。 「敬語はやめろって、君が言ったんじゃないか」 「離して」と今更つれないことを言う。僕はちょっと苛立ちを募らせて「君が良いと言ったんじゃないか!」  ——反省した。彼女を怖がらせるような真似をした。案の定彼女は怯えた様子で、しかし意を決したのかあろうことか「誰か」という風に叫び始めた。これではまるで、僕が彼女を脅かして、彼女が助けを求めている構図である。僕は周囲を気にして「しっ、静かに」と呼びかける。そこへ「おい、やめなよ」と言って売店のジジイがしゃしゃり出てきた。 「警察を呼んで!」と彼女は彼女に似合わぬ不愉快な金切り声を上げて、眉間に皺を寄せる。一体どうしたと言うのだろう。やっとこうして出逢えたところであるのに……。 「本当に、警察呼ぶよ? あんたそれで良いの、ねえ」  ジジイはそういう風に僕を脅すが何を言われようともはや彼女を手放すわけにはいかなかった。長く待ち望んで、ようやく、逢ったのである。彼女は今僕のことを覚えていないのか知れない。だが、すぐに思い出す。だから警察の来ようが何だろうが……  気がつくとそのうちに彼女は改札の向こうへと逃げ出している。信じられない。追いかけようとすると売店のジジイに羽交締めにされた。 「離せ、離せ」と喚き叫ぶ。悲痛な訴えにもかかわらず、ジジイには容赦が無かった。僕は再び、彼女と引き離された。別離を、強要されたのである。 「警察を呼ぶから、そこで大人しく待っておけ」と言う。何故警察なんぞ呼ばれなくてはならないのか、さっぱり見当もつかない。 「何故?」と実際に問うてみる。するとジジイは、苦虫を噛み潰したような顔を見せた。 「彼女とは、付き合っているんです。彼女の方が、久しぶりに逢ったから……忘れているだけで」  そう言うとジジイは「ああ」と何だかを心得たかのように嘆声を漏らした。 「あんた、可哀想な人なんだな」  ジジイは早速覚束ない人差し指で電話をかける。僕はその直後全力に駆け出した。糞、糞と口元に呟きながら、どこまでも駆けた。住宅街を抜け畦道に入り、それから疲れ切って歩いた。  コンビニがある。水分でも補給しようと足を向けた矢先——「よお」と言ってある男が店の内より現れた。 「大沢……」 「久しぶり」  嫌な予感がする。まもなく背後に爆音が轟いた。そこには山ほどの全長の白い鯨がやはりのたうち暴れ回っていて……  大沢がにやと唇の端を引き攣らせると「逃げろ」と号令した。もう何が何やら分からず、わああああと喚きながら走った。そのうちに「ビキ」と言って、世界に亀裂が入った。それから大沢ごと歪に割れると、どろどろと溶け出すように視界は崩れ去り、暗転した。  ——ガタンゴトン、ガタンゴトンと僕は運ばれていた。環状線に、延々揺られていたらしい。頬が濡れていた。  僕は今度、間違いなく電車を降りた。そして、駅の待合室にひたすら呆然とした。日はとっぷり沈み、夜となった。——電話が鳴る。  どうせ帰りが遅いと案じた親だろうと思って、出ない。ところが、着信音は立て続けに鳴り響く。とりわけ他に何も無いこの部屋の内には良く響いた。観念して、出る。 「もしもし」  そのたった第一声で、立ち所に知れた。 「今どこに!」 「ごめんね。あってあげられなくて」  大分澱みのない声であった。 「どうして、逢えないの……」 「ごめんね」と彼女は繰り返すばかりであった。 「もう二度と、逢えないの?」 「そうなるね」と電話の向こうの声は、判然と答えた。 「何故」 「……ごめんね」と言うばかりである。  きっと、理由など無いのだ。これは到底赦され難いことなのだ。何かは知らんが、怒り、無理やりに僕らを引き離すのだ。もはや現実と夢との境さえ定かでない。意識は明瞭、視界も良好で、ただ彼女の声ばかりが非現実的に反響する。 「好きだよ」  僕はその囁きを聞いて、大粒の涙を流した。電話口の向こうに聞こえるように、泣いた。  そして、僕は思い出したように言葉を話そうとした——が、プツンと言って電話は切れてしまったらしい。  寂しさと後悔に塗れ、ワンワン泣いた。  突如現れたかと思ったら、突如立ち消えた彼女。僕は、これから彼女以外の、誰をも愛するつもりは無い。そんなことならいっそ——と思うところに「ビキ」と世界は音を立てて割れた。一体次はどこに目覚めるつもりだろう? 確かなのは、その時はもう僕は彼女のことを覚えてはいない。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!