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ひび割れた夢
彼女の漆黒の瞳は、潤いに満ちていた。その目でもって、僕に語りかけてくるのであった。
「綺麗ね」
君の方が綺麗だよ、などという月並みな文句が、直ちに心中に呟かれた。が、気を取り直して「うん、綺麗だ」と僕は答える。目の前には、一面花畑が広がっている。薄ら、霞がかかっている。天候のせいではない。ここが、夢の中だから、そういう風に見えるのだ。つまるところ、幻の世界。僕が、僕自身の頭の中につくりあげて見ているだけの、虚構。だから、霞んで見える。そしてここには、彼女と僕ばかりが、明確な輪郭を持って、存在している。彼女の長い黒髪が、さっと風に揺られた。
「ここは、夢の中なんだね」と僕は確認をした。
「夢のようってこと?」
「比喩なんかじゃあない。本当に、ここは夢の中なんだ」
「誰の?」
「きっと、僕の」
彼女はふっと息を漏らして笑った。
「何でそんなこと分かるの?」
「分かるんだ。君とはもう、何度も逢っているから……」
そう、何度も逢っているのである。僕が初めて彼女と邂逅した時、僕はうっとりとした気分のまま目を覚まして、それから彼女のことを一旦は忘れてしまっていた。が、もう一度逢って思い出して、それからはいつ何時、起きていようが夢見ていようが、彼女の姿ばかり思い描いて、暮らしてきた。それから、夢の中でこそ、彼女に出逢うことができると気がついたのである。今日だって、こうしてちゃんと逢うことができた。それも、えも言われぬ春の絶景を目の前にして。
「確かに。私は、何度もあなたと会っているわ。でも、それが夢の中での話だなんて、思ったこともないけれど……」
「君が思いつかなくとも、きっとそうなんだよ」
強引に結論づけてから俯いた僕を、彼女は目を細めて流し見た。
「それじゃあ、私は一体何なの?」
「僕の想像上の一人物に、過ぎないんだろう」
「どうかな」と彼女は不敵に微笑した。
「君が実在したのなら、どんなにか良いだろう」
「ちゃんとここにいるじゃない」と彼女は言う。どうとも返し難い。
「そろそろ……時間か」
僕は空を見上げる。するとその先に、ヒビが入っている。ここが夢の中であることの、何よりの証拠だ。彼女に目を向けると、彼女は「そうね」と答えた。
「また明日も、逢えるよね」
「もしかしたら、ね」
彼女はやはり、にやりと笑った。
世界は無音のまま崩れ出す。視界がぼやけて暗転したかと思うと、次には見慣れた天井が現れた。
気だるい身体を起こして、朝の活動を始める。顔を洗い、朝飯を頬張ってから歯を磨き、着替える。それから、僕は学生なので、学校へと向かう。
学校へ行くのは、子どもにとっての仕事のようなものだ。毎日決められた時間に起き上がり、登校し、同じ教室で同じような授業を受けるのである。そして、僕は学校で、大抵一人ぼっちである。けれども、僕には『彼女』がいたから、一人でちっとも寂しいはずは無かった。それに、もうすぐ大学受験となる。クラスで友達付き合いを盛んにやろうという雰囲気でもない。一人で何ら気を病むこともなかった。
帰ると適当に勉強をして、九時十時には床につく。彼女と一刻も早く出逢い、長い時間を過ごす為だ。さて、寝入る。
僕と彼女はその日、共にドライブを楽しんでいた。僕の方は当然運転ができないから助手席に落ち着いて、彼女が運転席でハンドルを握る。すると、彼女は確かに大人びているとは思っていたけれど、大分年上なのかと思って「今いくつ?」と聞いてみると「大学生」という返答が得られた。どうやら僕は、年上の彼女に、恋心を抱いているらしい。自分が年上好きだとは、思いもしなかった。それも、自身の夢の中につくりあげ登場させて、毎日のようにデート紛いのことを繰り返している。そもそも僕と彼女とは、今一体どういった関係性にあるのだろうか。どうせ夢の中の話ではあるし、思い切って聞いてみることにした。
「彼氏とか……いるんですか?」
「何? 急に改まって」
彼女は冷たく笑って「敬語なんて使わないでよ」と言った。彼女の横顔を僕は、じっと見つめた。背後のガラスの奥は、靄がかかって良く見通せない。雲の中にいるように車外はほとんど霧に包まれている。正面には辛うじて、車道の続いていく様が見える。
「彼氏とか……」
僕は反復する。
「いないよ」と彼女は平然と答えた。
「君は?」
「僕は……」
彼女に告白しようかと考えた。しかし、いやまだ早いと思いとどまった。あんまり急ぐと、最悪の結果にもなりかねない。
「いない……です」
「敬語はやめて。……本当に怒るよ?」
彼女は正面から視線を外して、僕の方に向く。
「危ない、危ないから! 前、前!」
「事故なんて起こすと思う? 私が」
「思わないけど……」
大きな瞳である。この瞳に見つめられると、全部呑み込まれてしまう。
「やっとやめたね、敬語」
そう言って彼女は再び前を向き、ハンドルを操作した。
やがて唐突に霧が晴れ、左方にはきらきらの海が見つかった。
「見て、綺麗」と僕が呼びかけると「さっきはよそ見するなって言ったじゃん」と彼女は答える。僕はえへへと笑う。
砂浜に到着して、二人で水際まで歩く。胸が高鳴った。これが夢であることなど、もう忘れてしまっていた。彼女と手が繋ぎたかった。その為には、彼女にとって僕が相応しい存在とならねばならなかった。僕は、ほとんど衝動的に、愛を告白しようとした。——が、その瞬間「ビキ」と忌まわしい音がして、見ると、どうやら夢の終わりである。僕は彼女の手に触れようとした。しかし触れようとするのに手はどんどん遠ざかり……
気がつくと、既にそこは味気ない、自室であった。
朝を繰り返す。学校へ行く。退屈である。
ただ退屈なだけなら、まだ良い。学校で一日を暮らし、乗り切るには、踏ん張って頑張らなくてはならない。気を抜けばどこぞの誰に叱られるとも知れないし、思わぬ恥をかくとも分からない。家にいるように呆けて時間を潰しているわけにもいかないのである。
すなわち、それ相応に気怠い時間を過ごして、その末にようやくご褒美として彼女に出くわすことができるのである。昨夜はあと一時間でも、眠りにつくのが早ければ良かった。それなら僕らは今日晴れて恋人同士として、デートできたのかもしれないのであった。
とにかく、眠ろう。早めの晩飯を済ませ、八時にはもう布団に潜り、市販の睡眠導入剤を服用して寝ついた。
僕と彼女とは、一昨日と同じ花畑にいた。
「綺麗ね」と彼女は同じことを言った。僕は「君の方が綺麗だよ」と返した。彼女がクスクスと笑ったので、救われた。
「そんなこと、言うタイプだっけ?」
「今日の僕は、どこかおかしいんだ」
今の発言は、格好が悪いと思った。颯と告白してしまえば良いのに。今日の僕はどうかしていたから……と言い訳でもするつもりだろうか。
「君が……好きだ」
時の止まった気がした。風が吹き、幾枚もの花びらを散らした。
「付き合って、ください」
僕は彼女の目を見られなかった。見たいけれども、見られなかったのだ。
「また敬語使った」
「えっ?」
呪縛は解けて、僕は彼女の表情を捉えた。それは未だかつてこの世にあらわれたことが無いであろうほどに整って美しい顔であった。
「良いよ」
「えっ?」
僕は声の調子を一段上げて驚いた。そして、彼女は僕の手を取って、両手に包み込んで言った。
「あったかい?」
僕は頷いた。手だけでない。全身がぽかぽかとあたたかかった。
僕らはずっとそのままでいた。恐らく、現実にはこの間、数時間が経過しているのだ。なんて幸せなのだろう。ずっと、このままで良い。朝なんて、来なければ良いのに……。
しかし良い夢も悪い夢も、やがてはさめるものである。「ビキ」とまた嫌な音がして、拍子にとうとう僕は彼女を抱きしめた。彼女は拒まなかった。僕らは、愛し合っているじゃないか! 彼女の感覚が、今ちゃんとここにある。夢じゃない。こちらの方が、現実なのではないか。
「またあおうね」
彼女が囁いた。耳が蕩けるような、甘い声色であった。
「うん」と言う間に視界は霞み出し、確かな彼女の感覚も薄れ……僕は、現実に戻っていた。
あれらが全部、夢である。信じられない。僕は、今し方の感覚を確かめるように、空を抱え込んだ。——何もあるはずはない。
僕は学校へ行った。まだ、余韻は続いている。
久しぶりに、誰かに話しかけられた。
「羨ましいよな」と言う。
「何が?」
僕の声は、掠れている。久しぶりに外で喋るから、上手く声が出ないようだ。夢の中で話す分には、なるほど、声帯を用いることも無いわけだ。
「あいつ、彼女できたんだって。受験前にさ。落ちれば良いのにな」と言って笑った。僕もははと愛想笑いをした。
「お前はどうなの?」と聞かれる。
「何が?」
「彼女、いんの?」
僕は返答に窮する。
「えっ、まさかいんの?」
そいつは「大変だ!」と言って皆に呼びかけた。
「こいつ、彼女いるって!」
「マジかよ」
詰め寄られて、僕は徐にうむと頷いた。
「どんな?」
「かわいいの?」などと矢継ぎ早に聞かれる。僕は「かわいい」と答える。
「何だよお前」と小突かれた。
「隅に置けねえなあ」
「誰だよ、教えろよ」
僕は首を横に振った。
「この学校の人じゃないよ」
「えっ、それじゃあ……」
「大学生」
「マジで!」と周囲はいよいよ盛り上がる。
「すげえじゃん!」
「年上に目留められるか。まあ、確かにいかにも弟顔って感じだもんな」
弟顔ってなんだよ、と僕は戯ける。何だか気分が良い。今、僕はクラスの中心にいるようだ。
嘘はついていない。実際、昨日彼女に告白をして、オーケーをもらったのである。何て満たされた気分なのだろう。これぞ世に言う『リア充』というやつである。
現実世界をも気分良く乗り切った僕に、敵は無い。明日は休みだ。早起きする必要も無いから、たっぷりと夢の世界に浸り、彼女と過ごそう。——なかなか寝付かない。どうにも気分が高揚して、落ち着かないのだ。既にもう何錠か飲んでいたが、加えて服した。すると、やっとのことで夢の世界へと入った。
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