老婆の語る古いまじない

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老婆の語る古いまじない

無人の家が並ぶ道を進んでいくと、明らかに人が住んでる感じの家が混ざってくる。そこは雨戸が閉まってても誰かがいるっていうのがはっきりわかる。それくらい有人と無人は違った。 私たちは迷うことがなかった。人のいる方へ行けばいい。それが道標だった。 集落の奥へ奥へと行けば、他の家より大きな建物があった。其所だけ明かりがついている。きっとここが集会場だと、私たちは足を速めた。 玄関から入ってすぐのとこ、私たちが靴を脱がなくてもいい場所にそのお婆ちゃんはイスに座って待っていた。そのお婆ちゃんの手に指は五本揃っていただろうか。戦争の時代を生きた人にはよくあることだと誰かが言っていた。だから、私たちは数えなかった。 大事なものを隠してしまおう。そして願い事を決めるのだ。 見つからなければ願い事は叶う。 願い事が叶えば大事なものは見つかる。 何かでみたおまじないである。幼い子どもたちは誰もが知っていた。だから、誰かが何かを隠そうとするときは願い事があるときなのだと知っていた。 子どもたちは時に探し、時に共犯として隠蔽した。 決めた願い事は、隠した本人にしかわからなかった。 大人になれば、それがどんなおまじないなのか理解した。おまじないはオマジナイであり、呪いであった。 大人は隠される度に探し出そうとした。隠した者が子どもであれ、大人であれ、まじないの結果は決まっているのだ。 だから子どもは隠した。隠したことすら隠そうとした。探し出されれば願い事は叶わない。だから、必死で隠そうとした。 隠されたものは隠した者にとって大事なものである。大事なものであればあるほど、願い事は大事になった。 隠したものは大事なものである。だからなくてはならないものである。願い事が叶ったとき、それは戻ってくる。しかしそれは望んだ形とは違っている。 大事なものをなくしたくなければ、このおまじないは行うべきではない。大事なものをうしなうことと引き換えにしてでも願い事を叶えたい者だけが、このおまじないをした。 おまじないというものは。 願い事を叶える、実現するためのものではなく。 願い事を願うことに意味があるのかもしれない。 叶うまでの過程で何かを失えば、それはおまじないのせいである。もし叶わなかったら、それもおまじないのせいである。 全てを「おまじない」のせいにする。全てが「おまじない」のせいになる。 おまじないというものはそういうものなのだ。 だからおまじないは特別なオマジナイとなり、悪質な呪いと成り変わる。 大事なものは決まって願い事をしたものの近くにある場合が多い。それは大事であるが故だ。そして、それが見つかったか、見つかりそうかいち早く察知することができるように、隠したものは目の届くところに隠すときが多い。 見つかりそうなら見つかる前に隠し直せばいい。他の人に見つかることがおまじないの失敗なのだと子どもたちは考えた。 願い事をした人は叶えるために必死だった。 人はいつだって何かを願う。 ただ、それが何に願うかで結末は大きく変わってしまう。何を願うかはさして重要ではない。 人は願うのだ。目を閉じ、叶え叶えと念じ続ける。願うだけなのだ。
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