第1章:深夜の鐘が鳴るとき

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第1章:深夜の鐘が鳴るとき

『第1話:魔法の泉』 赤い三日月が笑う夜更け。真夜中を告げる時計の針は二回も短針を右へ動かし、闇の魔法が満ちる時刻を指していた。昼間に雨が降ったからだろうか。湿気た密度は夜の林を走る肺には重く、泥だらけの足元は、簡素な靴で通り抜けるには障害が多い。 「キャッ」 細く浮き出た木の根に躓いて、前のめりに倒れ込む。 「はぁ…っ…はぁ」 間一髪。木の幹にしがみついて傷だらけになることは避けられたが、引っかかった右足は鈍痛を訴えるように神経を逆なでしてくる。 「乃亜(ノア)ちゃーん?」 「ッ!?」 弱音を吐いている時間はない。足をくじいたからといって立ち止まることが許されるなら、虫さえも寝静まる不気味な林を走るなんて馬鹿なことはしない。 幸い、足はくじいていないようだ。 まだ走れる。それだけが今の乃亜を突き動かすすべてだった。 「あー、もー、どこ行っちゃったかなぁ?」 「三織(ミオリ)が目を離すからですよ」 「萌樹(モエギ)くんだって、人のこと言えなくない?」 遠くで名前を呼ばれた気がしたのは気のせいではなかったらしい。林とはいえ、もともとは屋敷に隣接された庭も同然。月明かりさえ届かない暗闇でも、何年も住み慣れた特定の地域で迷うなという方がおかしな話。現に乃亜を探す二人の声は、見失ったふりをしながら確実に距離を縮めてきている。 「急がなくちゃ」 下着すらつけていない、薄い寝間着一枚でどこまで行けるのか。 水分を含んだ靴は重く、髪は乱れ、白いスカートの裾に泥が跳ねる。なるべく音をたてないように、それでいて息をひそめながらゆっくりと。隠密のように身体能力を自慢に出来ればよかったが、残念ながら彼ら相手に体力の自信はない。 ただ見つかってしまえば、それで終わり。 「神様っ」 乃亜は指を絡めて目を閉じて祈ると、その顔をあげて再び走り出した。 向かう先はひとつ。屋敷から繋がる林の中にある泉。距離にして見ればそう遠くはない。視界が暗闇に遮られていなければ、もっと容易にたどり着けただろうその場所だけが、乃亜の希望を迎えてくれるに違いなかった。 「はぁ…っ…はぁ…ぁ」 肩で息をしながら到着した場所は、濃厚な霧を吐き出す黒い泉。朝を迎えれば鏡のように瓜二つの世界を映すその泉は、願いを叶える魔法の泉として古くから残っているらしい。 屋敷の本棚で見つけた古い日記に、そのことは書き記されていた。 今の乃亜には、この泉以外に頼れるものはない。変わってしまった世界でたった一人。強く願いながら呪文を唱えることが出来たら、この馬鹿げた世界ともさよなら出来る。 「早く、早く元の世界に」 あの日、入れ替わった体は、今頃「向こう側」で眠っているに違いない。時間が同じように進み、流れているのだとすれば時刻は深夜の二時。たとえ入れ替わったとしても誰も気付かない時間。 「たしか、右手をかざして・・・えっと、それから」 焦った心拍が異様なまでの高鳴りを告げている。 ドキドキと鼓動の音が体の奥から全身を叩くように、息をすることさえままならない。 「乃亜ちゃーん?」 「ッ!?」 自分の名前を呼ぶ声が近づいてくる。 「まさか逃げだすとはな」 「どうせ乃亜ちゃんのことだから、あの泉にいるんでしょ」 「では、早々に捕まえてやろう」 「あはは、斎磨(サイマ)くんがその鎖持ちながら言うと迫力あるわぁ。ねぇ、萌樹くん?」 「逃げなければ必要ない。なぁ、萌樹?」 「やめてください、三織、斎磨。ボクまで同じ考えだと思われるでしょう?」 そう遠くない場所から聞こえてくる会話のやり取りに、乃亜の顔は青ざめたように白く変わっていた。 「そんな、もう近くにいるなんて」 二人から三人に増えた足音。 声は始終穏やかで、林の中を死に物狂いで走って来た乃亜とは違う。同じ時間を共有しているとは到底思えない口ぶりに、ますます焦燥は加速していた。
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