スリーストライクス

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 妻のルールを三回破ってはいけない。  僕と妻の日奈子(ひなこ)夫婦の間にはスリーストライクス法がある。これは、僕たちが結婚したその日から存在する夫婦間における絶対的ルールだ。  この名前の由来は、アメリカの法制度であるThree-strikes law(三振法)からきている。このアメリカの法制度では、重い罪の前科を持つ者が三度も有罪判決を受けた場合、三度目の罪の重さに関係なく、終身刑を受けるというものである。  では、僕たち夫婦におけるスリーストライクス法とはどんなものかというと、妻の定めた、10を、一週間の内、三度破ってしまうと、三度目に犯した日から一週間、妻から罰を受けるというものだ。  当時二人暮らしをしていたアパートにて、僕が日奈子にプロポーズした夜のことだ。突然、彼女が自室に向かったかと思うと、日奈子は、長い黒の下敷きと長い半紙を、横向きに地面に広げ、小学生の頃から習っていたという習字捌きで、達筆な文字書き上げた。それが、日奈子10か条であった。今もなお、マンションの寝室に、光沢の目立つ黒の額縁に入れて壁掛けている。  スリーストライクス法を犯した場合の罰には、二種類ある。  一つは、一週間の間、日奈子からのいかなる物理的攻撃を許すという罰だ。つまり、いかなる暴力を許すということだ。  結婚して三年が経った今、僕はこれまでに二度、スリーストライクス法を犯したことがある。妻からの暴力なんて、じゃれ合いの延長線上のようなものだろうと思う人もいると思うが、一般人であれば、命を落とす危険性があると僕は確信している。 「日奈子と闘ってから、山でクマと遭遇した時でさえ恐怖を抱くことはなくなった」  日奈子の地元の親友で、ブラジリアン柔術の世界大会を四連覇したオリビアが、日奈子の話をするときに必ず言う言葉だ。  彼女は根っからの戦闘狂で、当時、荒れに荒れまくっていた女子校の、頭を張っていたオリビアを、玉座から引き下ろしたのが日奈子だったらしい。彼女は、笑いながらオリビアのタックルをよけ続け、たった一発の右アッパーで、オリビアをノックアウトさせたらしい。  日奈子のこぶしは、半端じゃない。僕も大学生までラグビーをやっていたため、打たれ強さには自信があった。だから、結婚前に彼女にこの罰のことを言われても、余裕だと感じ、何の気なく承諾した。だけど、初めて彼女の左アッパーを横っ腹におみまいされたとき、大学生時代に、コンゴから来た、身長2メートル越えの留学生にタックルされた思い出がフラッシュバックした。  そして、今日、僕は今週三回目の日奈子10か条を破った。一つは、ゴミ捨てを忘れたこと。二つ目は、デートの時間を破ったこと、これは第2条、“日奈子の夫たる者、いかなるときも時間を厳守する”を破ったことになる。そして、三つ目、ついさっき犯してしまったこと、それは、日奈子10か条の第10条、“日奈子の夫たる者、いかなるときも日奈子のスイーツを食べてはならない”だ。  自宅でのリモート作業を終えた僕は、冷蔵庫を開けると、大きなプッチンプリンが、視界を奪った。妻が帰ってくる予定まで時間があった。僕は、後ですぐにコンビニで同じものを買ってくれば問題ないと考え、そのプリンに手を伸ばした。空腹と疲れで、今思えば、思考が完全に鈍っていたのだ。  満面の笑みでプリンを頬張っていると、妻が帰ってきた。予定より二時間も速い帰宅だった。  プリンを頬張る僕をみた日奈子は、表情が消え、震え、そして、きりっと細く整った眉の間を寄せ、冷え切った口調で、「これでスリーストライクな」と言い放った。言い終わると同時、彼女の右ストレートが、僕のみぞおちめがけて飛んできた。食べたプリン全てが、口からすべて吐き出されたかと思った。  消えかかる意識の中、玄関を出ようとする彼女の姿が目に入った。  彼女を追いかけなければ。恐らく、プリンを買いにコンビニに向かうはずだ。日奈子を追って、プリンを弁償しなければ。  もし、彼女がコンビニに行く途中に不審者にでも遭遇したならば、僕は心配でたまらない。心配なのは、不審者の方だ。  なぜか日奈子は、穏やかじゃない現場に遭遇する確率が高い。彼女がそういうオーラをまとっているからだと僕は思っている。  彼女との出会いは、電車の中だった。満員電車の中、生まれて初めて、痴漢を目撃した。左斜め前にいたスーツ姿の中年男性がジーンズ姿の女性のお尻をさすっていた。  僕は意を決し、「この人、痴漢です!」と言って、彼の右手を持ち上げた。すると、中年男性は、苦悶の表情を浮かべ、目には涙を浮かべていた。何事かと思い、挙げられた彼の右手を見ると、人差し指と中指、薬指が綺麗に百八十度、エビ反りをしていた。  今思えば、中年男性は運が悪かった。痴漢した相手が、日奈子だったのだ。 「卑怯な奴は許さない」彼女の口癖だ。もし今、彼女が不審者に襲われるようなことがあれば、日奈子は、相手を半殺しにしてしまうかもしれない。  日奈子を、妻を、殺人者にしてはならない。 「待ってくれ」と、口にしたはずが、声にならなかった。
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