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帰ってきた夫
***
「記憶をすべて失っておられます。頭を打ったことが原因でしょうね」
救急車で病院に運ばれた一誠が、一週間ぶりに意識を取り戻したとき、夫は私のことを忘れてしまっていた。失ったのは私の記憶だけではなく、これまで生きてきた過去をすべて忘れてしまったらしい。
最初は私から逃れるための演技かと思ったが、すぐに猿芝居ではないと気づいた。常に堂々としていた一誠は人が変わったように、不安そうな眼差しで私を見ているからだ。
記憶喪失というやつだろうか? 正式な病名ではないようだけれど、そんなことはどうでもいい。
「あの、あなたは僕の妻だと先生から聞きました。本当ですか?」
上目遣いで私を見つめる一誠は、私が知っている夫の姿ではない。けれど今の彼は私だけを見ている。今の夫の視界に他の女の姿はない。
「ええ、そう。あなたと私は夫婦よ。とても仲良しで、おしどり夫婦って評判だったの」
「そうなのですか? 僕はまったく覚えてなくて……。申し訳ない」
「事故で頭を打って記憶を失ってしまったんですもの。仕方ないわ」
「事故? 僕は事故にあったのですか?」
「ええ。マンションの屋上で夫婦仲良く夜景を眺めていてね。せっかく良い夜だったのに、あなたはうっかり足を滑らせて階段から転げ落ちて」
「ぼ、僕はそんなにそそっかしいのですか?」
「無事で良かったわ……。あなたが意識を取り戻さなかったら、後を追う覚悟だったのよ」
「そこまで僕を愛してくれているのですか?」
「だってあなたと私は、生涯を共にする夫婦ですもの」
あらかじめ用意していた台本でもあったかのように、私はさらさらと嘘を吐いていく。
けれど「生涯を共にする夫婦」という言葉だけは嘘ではない。一誠と私は、本物の夫婦。この世でただひとりの、運命の相手なのだから。
記憶を失った夫の一誠は、私の言葉をすべて信じ、受け入れていった。以前の夫なら、私の言葉をこうも素直に聞き入れてくれなかったはずだ。
今の一誠ならば、私が願うとおりの夫になってくれるかもしれない。
いや、してみせる。
地獄に堕ちることを覚悟した私だもの。愛する夫と幸せになるためなら、どんな罪を背負ってやる。
「あなたは私がいないと生きていけないと口癖のように言っていたわ。それは私も同じ。だから何があっても、夫婦で支え合って生きていきましょう」
「僕は記憶をすべて失ってしまったのに、本当にいいのですか?」
「あなたと私で、また始めればいいのよ。真っ白な状態で、思い出をひとつひとつ作っていきましょう」
「実桜さん……ありがとうございます……」
むせび泣く夫に寄り添いながら、優しく語りかける。
「実桜さんなんて他人みたいに呼ばないで。私とあなたは夫婦だといったでしょ。実桜、と呼んでちょうだい」
「実桜……ありがとう……」
夫が病院を退院する前に、私と夫が勤めていた会社にそれぞれ退職願いを送った。理由は病気療養のため。一誠と共に遠い地へと引っ越し、人生をやり直すためだ。私と一誠のことを誰も知らない場所であれば、暮らす場所はどこでもいい。
「一誠、あなたと私、夫婦で力を合わせて生きていきましょうね。あなたはすぐには働けないから、私が頑張って稼ぐわ」
「すまない、実桜。将来のことを考えると頭痛が酷くて」
「気にしないで。夫の支えるのが妻の役目ですもの」
「ありがとう、実桜。君がいてくれて良かった」
「私もよ。あなたがいてくれるから私は生きていける。これからも夫婦仲良く暮らしていきましょうね」
妻である私がいないと生きていけない男にしてあげよう。少しばかり働けなくても、私が頑張ればいいのだから問題はない。
一誠。これであなたは私だけのもの。
生涯を共にする夫婦になるの。
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