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心に空いた穴
「ねぇ、今日のスーツはグレーにして言ったでしょ。なんでワイン色のスーツが出してあるわけ?」
「だって実桜はワイン色がよく似合うから……」
「似合っていても、初めての会社と打ち合わせの時にはふさわしくないの。そんなこともわからない?」
「ごめん……」
「一誠は働いてないから仕方ないけどね。今度から気をつけて」
「うん……」
毎日遅くまで働く私のために、夫の一誠は私の身の回り、毎日の衣類の管理や持ち物の用意まで担当するようになっていた。最初は疲れて寝ている私を少しでも長く寝させるためだったが、今は一誠が担当する家事のひとつとなっている。
「朝食はまたスムージー? 冬は冷えるから温かいスープにしてよ。気が利かないわね」
「ごめんね、実桜の肌荒れが酷いみたいだから、ケアしてあげたくて」
「だったら顔のフェイシャルマッサージもやってよ。一誠は器用だから動画とかで勉強してできるわよね?」
「え? でもそれだと毎日のマッサージ時間が増えちゃうよ」
「何よ、不満なの? 働けないくせに」
「……ごめん」
「じゃあ今日から頼むわね」
夫の一誠は私に従順で、何でも言うことを聞いてくれる。少しばかりキツイ口調で命令してしまうのは、彼への復讐心がくすぶっているからかもしれない。だって以前の彼は私の愛を裏切り、浮気していたのだから。今の夫は浮気のことも忘れてしまったのだから、あまり虐めるのは可哀そうよね。
「ねぇ、実桜。今日は早めに帰ってこれる?」
「わかんない。新しいプロジェクトが始まってるし」
「そっか……。お仕事大変だね」
「遅かったら先に寝ていてもいいわよ、一誠」
「ううん。待ってるよ、実桜の帰りを」
一誠は私が帰ってくるのを、じっと待っていてくれている。私のためにと、世話を焼いてくれるのも私を愛している証拠だ。
心も体も満たされている……はずなのに。
今の私は、なぜか苛立っていた。
「家に帰ると、満面の笑顔で私を出迎えてくれるんだろうなぁ……」
飼い主の帰りを待ちわびている愛犬のように、ぶんぶんと尻尾を振っている夫が見えるようだ。
「なんか、重っ……」
夫に誠心誠意尽くされて、時に少しだけ意地悪をして。心も体も満たされているはずなのに、最近の私は今の生活に疲れを感じ始めていた。今も働けない夫を支えるために、必死で働かなくてはいけないのだから。
記憶を失う前の一誠は仕事も優秀で、順調に出世していた。あのまま働いていたら、妻の私が働かなくても豊かに暮らせていたと思う。
「今の一誠は私がいないと生きていけないんだもの。仕方ないよね」
記憶を失った一誠を私の都合の良い夫に改造して、私だけのものにする。その願いが叶ったのだから、贅沢を言ってはいけない。
それは理解している。わかっているのに、心と体が重くて、息切れしてしまう。
その日は仕事が早めに終わったが、まっすぐ帰る気にはなれなかった。途中で見かけた居酒屋のカウンターでひとりでお酒を飲んでいた。
そういえば、一誠との初めての出会いも居酒屋だったっけ。
「ねぇ、君。ひとり? 良かったら一緒に飲まない?」
向かいの席に座っていた男が、私に声をかけてきた。私が返事をする前に、男は私の横に腰を下ろす。少し強引だけれど、人懐っこい笑顔が記憶を失う前の夫に似ている気がした。
「いいわよ。二人で飲みましょう」
私は夫以外の男との時間を、秘かに楽しむようになっていった。
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