妻との別れ方

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 妻の理想の「もしも私が死んだら」考は、後日の面会でも、あちこちに妄想を飛び火させながら続いた。副葬には、お宝目当ての墓荒らしがイヤだから、高価なものは入れないでほしいそうだ。生前につかっていたプチダイヤのネックレスなどの装飾品などは、死後、好きなようにしていいという。かわいすぎて使えなかった友人から誕生日プレゼントでもらったアナスイの鏡がどこかにあるはずだから一緒に埋葬してほしいと言うが、その鏡が家のどこにしまってあるのか一番肝心な情報は聞き出せない。最後の晩餐は何を食べたいかという話題は、唯一、私も積極的に参加できた。焼き肉や寿司など高級食材の他、意外と多く上がったのは、月見バーガーやシロノワールといった、全国チェーン店のメニューだった。現代人の舌はいかにチェーン店の広報戦略に支配されているのかという考察は白熱し面白かった。  しかし、妻の容態は日に日に悪くなる。饒舌にしゃべる日もあれば、一日中粗悪と戦っている日もあった。症状がひどくなると、私は病室を追い出された。その苦しみを変わってやることができればどれだけいいかと願っても、私にできることは無い。    私は妻に内緒で、義実家と連絡を取っていた。自分の親も看取ったことが無く、喪主のお経験も無ければ、墓も無いことを素直に相談した。 「冗談でも無ければ、真面目な話でもないと受け取られそうな、それでも一応本人から聞いた希望なのですが・・・・・・」  と、前置きをして、妻が病床で話した死後の希望も伝えた。ミイラで古墳葬の構想は、義両親のことも大変楽しませた。それらを加味した上で、宗派は私に一任するが、困ったら相談に乗ってくれるとのことで話がまとまった。そして、まだ四十代の私が急いで墓を作ることも無い、新しいお嫁さんがまた来るかもしれないから、とりあえず娘の骨は、納骨堂で保管をして、墓のことは環境が整ってから考えれば良いと、寛大な案を出してくれた。後妻を娶るなんて、そんなことはあり得ないと主張したが、墓の問題を先延ばしにできるのは、正直ありがたかった。よって、鳥取砂丘での四隅突出型墳丘墓制作問題は、一時棚上げである。  一通り話がまとまると、義両親は妻の幼少期の話をしてくれた。未就学児の頃に国立博物館で初めて見た本物のミイラに恐れおののき展示室で大泣きをしたこと、小学生の夏休みの自由研究で地域の古墳について調べて賞状をもらったこと、家族旅行で鳥取に行ったことがあるということ。どれも、私と妻の夫婦生活の中では聞いたことが無い話だった。 「死が近くなると昔のことをよく思い出すって言うからねえ。神様のお迎えが近いんだと思うわ」  義母がしみじみという。娘に先立たれる母の気持ちがどれだけつらいものか、想像に難くない。私の前ではそんな弱さを見せない、立派な女性である。 「そういえば、いろんな妄想はするけど、神頼みの話はしませんね」  私がそう言うと、義母はハハハっと声を上げて笑った。 「だってあの子、『私が神だ!!!』って言ってましたもん。言うことが生意気で、あまりにも天狗になるから、お父さんと夏休みに大げんかしてね」 「あぁ・・・・・・そういえば、『天理教の教祖になる』って言ってましたね」 「奈良の天理市にも観光で行ったことがあるわね。宗教都市天理市の景観があまりにも美しくて、大きな宗教施設群を見て『竜宮城みたい』ってはしゃいでいたわ」  私はそんな話を聞きながら、少女時代の妻、結婚した頃の若く美しい妻、そして、病床の住人となってしまった現在の妻に思いを馳せる。  隣に妻の姿が無くても、いつか時間がとれたら、奈良の観光や、山陰地方の古墳巡りをしてみるのも良いかもしれないと思った。しばらく雑談をしてから、義実家を後にする。  結局、妻は年を越せなかった。大寒波の翌日に、先端治療の甲斐無く、苦しみながら息を引き取った。かわいそうな最後であった。
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