妻との別れ方

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 冷たい雨が降る冬の空。  面会時刻は十三時から。  妻の病室に足を運ぶと、妻は眠っていた。  削げて血色の失せた頬。落ちくぼんだ口元。真っ黒なまなこ。腕には二本の太い点滴の管。ベッドの周りには精密な医療機器が数台あり、妻の生命維持機能をすべて数値化して、一瞬の異変も見逃さぬよう見張っている。妻の体はもう正常に動いている臓器の方が少ない。循環器系もやられており、顔や手足がパンパンにむくんで白くなっている。  今日のように天気が悪い日は、病人には負担が大きいのだろう。  私は妻を起こさないよう、そっと定位置の丸椅子に腰掛けて、彼女のむくんだ手足を揉んでやる。  彼女の肌は温かかった。冷たい外気に晒された自分の指先の方が、よっぽど死人のような温度だ。 「手が冷たくて、ごめんな」  届かないと分かっていながら、彼女に声をかける。  右手、右足。ベッドの反対側に回って、左手、左足。  毎日面会に来る私に、親切な看護師がやり方を教えてくれた。  看護にも介護にも届かない、素人のマッサージ。手足を揉むことで、妻の気持ち悪さが少しでも無くなれば良いが、情けないことにこの年になるまで真剣に他人の体をマッサージしたことは一度も無い。  自分はいい夫ではなかったと思う。妻がこんな病状になってから優しさを差し伸べても、今更遅いのだ。最後にあの細くて小さい肩を揉んだのは、結婚前かもしれない。  入院してからの妻は、私の素人マッサージにも「気持ちよかった、ありがとう」といつも言ってくれる。それは本心なのかお世辞なのか分からない。  もっと長時間揉むこともできるが「気持ちよくないから、そのあたりでやめてくれ」という意思表示なのかもしれないと思うと、どうするのが良いか正しい判断ができない。  妻が死ぬときに、最後に見るのは、病室の無機質な白壁であろう。人は、生まれる場所は選べないが、死ぬ場所は選ぶことができるというけれど、現代社会においては嘘だ。そして、妻自身がこの場所を選び、望んでいたとは到底思えない。  妻のために、何か自分にしてやれることがあるだろうか。  病室の室温は冬らしく冷たい。私の体は、指先やつま先などの末端から冷えてゆく。私は両腕を温かい妻の布団の中に潜り込ませると、布団の中から病人特有の甘い匂いがした。彼女と共に過ごす時間はあとどれほど残されているのかと考えながら、知らぬ間に枕元でうたた寝をしてしまった。  
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