2人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ
序章
契約をしようと思って悪魔を呼び出したら、契約書を渡された。そんな経験は、誰しもあると思う。
最近の魔界では労働基準法が改正されたため、契約をする手順がより厳しく定められているのだ。
そのことを、彼はもちろん知っていた。
だから、印鑑も万年筆も用意してあったし、なんなら血判状も必要かなと思って小型ナイフまで用意していたくらいである。
それなのに、これはどういうわけだ。
「おや、これはこれは」
召喚した悪魔が差し出したのは、細々とした字でびっしりと埋め尽くされた契約書ではなかった。
実態のない霞のような手を、悪魔はサイロに差し出したのだ。
「これは大変失礼しました。入念な準備をしていただいたようですが、我々悪魔との契約に書類などいりませんよ」
「はあ⁉」
「当然でしょう。書類だの印鑑だのといったものは、しょせん人間における勝手な決め事です。悪魔には通用しません」
「確かにそうだが、最近の魔界では法の整備がかなり進んでると聞いたぞ。労基法から消費者契約法まで、いちから作られてるってな」
思わずサイロが声を荒げると、悪魔は悪びれた様子もなく、へらへらと笑った。
「すみませんねえ。ですが我々魔界の方でも、理由がありまして。確かに最近、魔界では労働基準法が整備され始めていましたが、新しく第3代魔王に権威のすべてが継承されたのですよ」
ところが困ったことに、この3代目魔王様は筋金入りのボンボンで、行政も司法も放り散らかして遊んでばかりいるのです。
2つどころか11もある目元を3本の手で代わる代わる押さえながら、悪魔は黒いその巨体を縮こめるようにして嘆いた。闇を呑んだかのような体躯はずいぶんと痩せ細っており、悪魔の心労を物語っている。
「ですから、あなたの願いを叶えることは非常に単純なのですよ。面倒な書類も手続きも10年間の善行もいっさい必要ない。あなたが私と契約して願いを叶えるためにすべきことは、何もありません」
そう言うと、悪魔はぱちんと指を鳴らした。
最初のコメントを投稿しよう!