夫を出迎える妻

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 望みのものを手に入れるために、夫はスマホで千堂(せんどう)綾乃を呼び出した。私が目の前にいるのに、恥ずかしげもなく猫なで声でなだめすかして。 「頼むよぉ、(あや)チャン。もちろん、タクシー代は出すからさぁ。ホント、ゴメンって」  あんな風に、嘘でも謝ってくれたのは、いつが最後だったかしら。昔は、ちょっとしたことでも彼が先に折れて、すぐに謝ってくれた。世間知らずのお嬢ちゃんだった私は、それを優しさだと信じて疑わなかったっけ。本当、純粋無垢な脳天気で、嫌になる。  白磁のティーカップに、澄んだ赤茶色のダージリン。芳醇な香りのため、「紅茶のシャンパン」なんて異名を持つ。クッキーやケーキ生地に練り込んでも美味しいけれど、やっぱり2番摘み(セカンドフラッシュ)をストレートでいただくのが最高に贅沢だ。 「すまん、芳美。今月不渡りが出たら、アウトなんだ。200万でいい。頼む……実家から借りてくれないか?」  夫が経営するのは、小さな清掃会社。契約したホテルや商業ビル、マンションなどをチームを組んで清掃に当たる。  私は経営には一切口を出してこなかったけれど、結婚後10年間は、近所のスーパーでレジ打ちのパートをして家計を支えてきた。それでも、何度か――契約更新が取れなかったり、契約先の企業が倒産して債権が回収出来なくなったりと、経営の危機に見舞われた。 「でも……前の300万だって、まだ返済の途中なのに」  私が頭を下げれば、両親は老後用に積み立てている預金を崩して貸してくれるだろう。けれども、私の兄と姉は黙っていまい。  実際、両親からの借金が500万を越えた頃から、盆と正月に顔を合わせる度に、兄姉から容赦のない皮肉を浴びせられるようになった。けれども、その矛先が姻族の夫に届くことはなかった。私が盾になっていたから。 「分かってる! 分かってるよ、芳美。お前には、いつも申し訳ないと思っているんだ。事業が軌道に乗ったら、きっちり確り返済する。苦労かけている分、お前にも孝行するつもりだ。そうだ、旅行に行こう。新婚旅行で行った北海道。お前、また行きたいって言ってたよな、な?」  借金を頼んでいる時に、なにを調子のいいことを。どうせ口先だけ――そう分かっていても、彼の会社を、彼を助けたかった。私は、いつものように両親が好む栗羊羹の化粧箱を携えて、独りで金の無心に出掛けた。私の顔色を見て悟った父は、『もうこれが最後だ。これ以上せがむなら、離婚しなさい』と最後通牒を突き付けてきた。  その後、3年も経たない内に、両親は相次いで他界した。少しずつ繰り返してきた借金は、総額900万まで膨れていた。狡い夫は、借用書を作らなかったことを盾に有耶無耶にしようとしたが、兄姉は許さなかった。今から12年前、両親の7回忌を最後に、我が家は親戚付き合いの輪から弾かれた。以来――印刷文面のみの社交辞令みたいな年賀状を、 生存確認目的で送り合うだけの仲になってしまった。
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