夫を出迎える妻

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 ああ、嫌なことを思い出してしまった。 「綾乃さん、どのくらいで着くって?」 「……30分もかからん」  むっつりしたまま、言葉少なに頷くと、夫は温くなったダージリンを、味わうことなく水のように喉に流し込んだ。乱暴に置いたカップに、ポットの残りを注ぎ、更にゴクゴク喉をならして飲み干した。 「もう一度、淹れ直すわね」  ダージリンの次は、アッサムでミルクティーにするのもいいかもしれない。微笑むと、空のティーポットを手に、私は立ち上がる。 「トイレ……行ってくる」  同じタイミングで、彼も席を立った。紅茶には利尿作用があるけれど、まだ早過ぎる。2人切り、無言で向かい合う気まずさに絶えられなくなったのかもしれないし、この後訪れる修羅場の予感に緊張し、急激にもよおしたのかもしれない。  いずれにせよ、都合が悪くなると、逃げ回ってきた人だ。いつも。 「離婚してくれ」  半年前、1週間振りに帰宅したと思ったら、夕食に手も着けずに切り出された。 「この家と土地は、お前にやる。慰謝料だ。後、資産の半分も……」  既に決定事項だというように、彼はさっさと財産分与の話に進んだ。 「ま、待って、あなた! 私、まだ理由も……」  足元がグラグラ……目眩がした。咄嗟にシンクの縁に捕まって体重を預けるも、息が詰まる。 「女だ。お前だって、分かってんだろ? 亭主が、週の半分以上『出張』で留守にしているって、異常じゃないか」  ダイニングにもソファーにも座らずに、仁王立ちのまま淡々と答える。まるで他人の家に来たと言わんばかりの、よそよそしい態度で。 「お相手は……どなたなんですか」 「どうせバレるからな。お前も知っている。うちの経理の千堂だ」  悪びれる様子がまるでない。尋ねるごとに、身体が震え、足元が崩れていく。 「彼女、お幾つ?」 「あー、来月で40? 41だったかな」  10歳以上も年下だ。そんな若い人に手を出すなんて。 「少し……考える時間をください」 「ま、いいけど。俺の意思は、変わらないからな?」  一欠片の謝罪もなく、彼は家を出た。それ切り――月に数回だけで、夫はほとんど不在になった。
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