夫を出迎える妻

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「あなた。洗面所で、なにか気づきませんでしたか?」  ダイニングチェアに腰を下ろした夫を見上げるも、彼はフイと顔を背けた。 「知らんよ。滅多に来ないんだ、気づくもなにも分かる訳ないだろう」 「そう……そうね」  この人は、いつもそうだ。  苦しかった時代、家の中を明るくしようと手作りした小物を飾っても、節約しながら健康に配慮した料理を工夫しても、気づいてくれた例しがない。  私のことだって――この人は、多分、なにも見ていないのだろう。最初から。 「蒸らしている間に、書類を埋めましょうか。分からないところ、教えてくださる?」  砂時計をひっくり返して、先ほど横に置いた書類を手に取る。 「ああ。そうしてくれると、助かるな」  彼の意に沿う提案だからか、家に来て初めて表情が緩んだ。爬虫類みたいに、片方の口角だけグニャリと歪む。いつからだろう。結婚した頃は、こんな嫌らしい笑い方をする人じゃなかったのに。  ここの土地と建物の名義変更届。預貯金や会社の資産などの固定資産評価証明書に基づいた、財産分与契約書。それから離婚協議書。次々に記入・署名・捺印していき、遂に離婚届を残すのみとなる。 「そうそう。あなたが来るから、タルトを焼いたのよ」  砂時計が半分落ちた。私は書類を再び右によけ、微笑んで立ち上がる。 「は? 別に好物じゃないぞ」 「分かってるわよ。でも、私の最後の手料理なんだから、付き合ってくださいな」 「勝手にしろ」  冷蔵庫で出番を待っていた、ベリーのタルト。ホールを1/6にカットして、お気に入りのイチゴ柄のお皿に一切れずつ乗せる。フォークを添えてダイニングに運ぶ。 「甘そうだな」  目の前に置かれた皿を一瞥すると、夫は露骨に顔をしかめる。この人は、いつもそう。見た目が気に食わないと、手を付けもせずに料理をけなす。それは、私の手料理だけならまだしも、外食先でも揺るがない。『俺が稼いだ金で払うんだから』――そんな言葉を人前で堂々と吐かれ、私がどれほど恥ずかしい思いをしたかも知らないで。 「そう言うと思って、甘さを抑えてみたの」  約30年の結婚生活で、この人の心ない言葉に、どれほど傷ついただろう。言い争った時期もある。離婚を考えたことも――あるにはあった。けれども、時折覗く優しさや弱さが情を揺さぶり……なにより、苦労を共にしてきた戦友のような絆を、私から断ち切る勇気がなかった。  やがて、私は笑ってやり過ごす術を身に付けた。真正面から言い合っても、彼からの謝罪や譲歩が期待出来ないと理解してからは、エネルギーのベクトルを変える努力をした。つまり、怒りを微笑みに変換する(かえる)のだ。 「さ、お茶もちょうどいいわ。アッサムは、ミルクティーが合うのよ」  ティーコージーを取って、互いのティーカップに注ぐ。新芽を含んだ茶葉から淹れたので、ミルクを加えれば、まろやかで上品な味が楽しめるだろう。
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