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何も手放さず、何も諦めず
馬を走らせ来た道を戻る。
風を受け、馬を走らせながら段々頭が冷静になってくる。
――向かったところでまだマリウスは来ていないかもしれない。
(そうよ、来月赴任すると書いてあったし)
ひと月先の話だ。荷物を先に送っているだけなのだろう。
馬の手綱を引き、速さを緩め首を叩いた。
「ごめんね、疲れてるのに無理させちゃったわね。水を飲みましょう」
馬から降り、手綱を引いて道と沿うように流れる小さな川へと馬を歩かせる。川の脇にある木の枝に手綱を引っ掛け、水を飲む馬から離れて木陰に腰を下ろした。
小さな小川の向こうには少し小高い丘が続き、斜面には規則正しく木が植えられている。収穫の時期が終わり、今は皆で染料を作る作業に入る時期だ。
王都では思った以上に収穫があった。これまで以上に生産を安定させ、十分に供給できるように管理しなくてはならない。それに加え、新しい運送経路も確保して、品質の管理も怠らないよう更に高品質なものを……
「駄目だわ、全然頭が働かない」
仕事のことを考えようとしても、同時にマリウスのことを考えている。
たった十日間離れただけだと言うのに、早く会いたいとさえ思っている。
『……心配しないでくださいアメリア、すぐに追いかけます』
マリウスはそう言っていた。
あの時もう既に、この領地へ赴任することが決まっていたのだろうか。
いつの間に、何があったのだろう。そう言えば家が高位貴族でよかったとかなんとか、言っていたような気がする。
もしかしたら余計な勘繰りは入れないほうがいいのかもしれない。
(私と一緒にいるために、手を回したって言うこと、でいいのよね……?)
『貴女は貴女のままで。何かを諦めたり手放したり、そんな必要はありません』
そんな言葉を信じてもいいのだろうか。
彼にだけ甘えて、私はこれまでとおり好きな事だけをして生きていいのだろうか。
対話が出来ないことがもどかしい。
言葉を交わせないことが、もどかしい。
膝を抱え、ぼんやりとキラキラ光る小川の水面を見つめる。マリウスの瞳とは違う色。けれど、あの美しい瞳の色を思い出す。
「……早く会いたい……」
膝に顔を埋めて気持ちを言葉にすると、急に寂しさが迫ってくる。じわりと熱いものが浮かび、慌てて膝でごしごしと拭う。
その時、ふわりと森のような香りが漂った。この匂いは、私の好きな匂いだ。
「……それは、マーロウに? それとも、僕にですか?」
その言葉に顔を上げると、騎士の隊服を身に纏ったマリウスが膝をつき、私を窺うように覗き込んでいた。
「ま……、マーロウ、に」
「ふふっ! 僕も早くマーロウに会いたいです」
ふにゃりと笑うマリウスの笑顔を見て、引っ込んでいた涙が不覚にもまた滲んだ。マリウスは私のそんな顔を見て破顔し、がばっと私に抱き着いた。
「アメリア、でも僕は貴女に早く会いたかった!」
マリウスはぐりぐりと顔を私の肩に擦りつける。その仕草にやっぱりじわりと涙が滲んで、ぎゅうっと彼の身体を抱き締めた。
「わ、たしも。……会いたかった」
いつまでもぐりぐりしてくるマリウスの頭を撫でると、なんだか埃っぽい。
「本当に犬みたい……」
「あっ、すみません、僕汚れてるんです!」
ぱっと身体を離したマリウスが慌てて私の手を取り、掌を払った。
確かによく見ると身体中埃っぽい。
「馬で駆けてきて、碌にお風呂にも入っていないので……すみません、アメリアのドレスを汚してしまいました」
「いいのよ別にそんなの……、王都から馬で来たの?」
「はい。アイツは丈夫なんです」
マリウスは離れた場所にいる私がさっき馬を休ませた場所に視線を向けた。いつの間にかもう一頭増えている。
「馬の話じゃなくて。道中休んだ?」
「……時々?」
「今、間があったわよ」
「だって、早くアメリアに会いたくて」
ぽりぽりと頬を掻き視線を俯けるその仕草に、愛しさが込み上げてくる。
思わず手を伸ばし、その埃だらけの頭を撫でた。
「あ、アメリア」
「いいから。ほら、もう一回ぎゅってして」
そう言うとマリウスは一瞬きょとんと私の顔を見て、ふにゃりとまた笑顔を見せた。頭の上の見えない耳が、ピンとこちらを向いた気がする。
私の腰に腕を回してぎゅうっと抱き着いてくるのを抱き締め返し、その髪をわしゃわしゃと撫でる。マントで見えないけれど、その下ではきっと尻尾を振っているに違いない。
「私、ずっとこうしたかったのよね」
「僕も、ずっとされたかったです」
「聞きたいことがたくさんあるわ」
「もちろん、何でも答えます」
「もうこっちに引っ越してきたの?」
「はい。引継ぎを終えてきました」
「それは、ちゃんとした手順を踏んだ?」
「もちろんです。仕事は手を抜いたりしません」
「そう、ならいいわ」
膝の上に寝転がったマリウスの髪をいつまでも撫でながら、これからのこと、私たちのことを話していく。
「愛してます、アメリア」
「……私も、愛してるわ、マリウス」
膝の上で私を仰ぎ見て、湖のような瞳を輝かせたマリウスがふにゃりと恥ずかしそうに笑う。
その唇にちゅっと口付けを落とすと、後頭部を抑えられ更に唇を深く合わせた。
「アメリア、もう一度言って」
「……駄目よ」
かあっと顔が熱くなり、どうしても素直になれずそんな事を言う。そんな可愛げのない私に、マリウスは目許を赤く染めこんな事を言うのだ。
「かわいい、アメリア」
そんな言葉に絆されて、また口付けを繰り返す。
飽きることなく、何度も、何度も。
「好きですアメリア」
まるで呪文のように、けれど息をするように思いを伝えて。
丘の向こうから、聞き覚えのある鳴き声がした。
その声に起き上がったマリウスと視線を向けると、愛犬マーロウが私の帰りを知り丘の向こうから掛けてくる姿が見えた。
黄金色の大きなマーロウが、大きく尻尾を振りながら。
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