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 父がこんなにたくさん喋るのを聞いたのは、何年振りだっただろう。  寡黙で、いつも堅い表情をしていた父。私達はお互いに、業務連絡みたいな会話しかしてこなかった。  今だってぎこちない顔をしているのは変わらないけれど、少なくとも父が壱己と真摯に対話をしようとしているのは理解出来た。  それはひとえに、壱己が率直に自分を曝け出し、父と向き合おうとしたおかげだと思う。  父は真面目で実直な人だ。相手が心を尽くせば、きっちり同じだけ返そうとする。私がもっと真剣に父との親子関係を改善しようと働きかけていれば、きっと父も返してくれていただろう。  でも、私にはそれが上手く出来なかった。自分が本音でぶつかっても、望んだ結果になるとは限らない。適当に躱されたりでもしたら傷付くし、その後さらに気まずくなる。それが怖くて出来なかった。  私が何年も掛けて出来なかったことを、壱己は初対面で、ほんの数十分でやってのけた。壱己の存在をありがたく思う反面、私は複雑な気持ちになった。自分の不器量を思い知らされた気分だった。    私の胸中に影が差しているのを知ってか知らずか、壱己は私の耳元に顔を寄せて小声で囁く。  「灯里、母親の部屋を調べるなら、タイミング見て席外しな。こっちは俺が繋いどくから、適当な理由付けて二階に上がれ」  そうだ。今日の本当の目的はそれだった。  忘れていた訳ではなかったけれど、父に用事はもう済んだと言ってしまった手前、今日はもう難しいだろうと半ば諦めていた。  でも壱己がそう言うなら、少しだけなら母の部屋を覗けるかもしれない。せめて母親の部屋が現状どうなっているかだけでも見ておきたい。  「不動産関係のお仕事をされてるんですよね。分譲マンションの販売だと彼女から聞いたんですけど…」  「あぁ、それはだいぶ前の話だな。今は部署が変わって、企業向けのビルや商業施設のテナントの販売や賃貸を…」  お茶を淹れて戻って来た父に、壱己は仕事の話を振る。仕事ばかりしているだけあって、父の口調もさっきよりずっと流暢だ。  「ねぇ、私、少し自分の部屋に行ってもいい?置いて行った荷物の整理をしたいの」  「あぁ、わかった」  「どの辺りの物件を担当されてるんですか?」  「ん?えぇと、大きなとこだと五年前に出来たショッピングモールの…」  話の隙間に無理矢理割って入った私に、父は生返事を返した。すぐさま壱己が話を戻したので、父が離席した私を気にする様子はない。    大きな物音を立てなければ父に気付かれることもないだろう。二階に上がって、そっと母の部屋のドアを押す。    中の様子を一目見て、私は愕然とした。  母の部屋は、いくつかの段ボールが置いてあるだけで、あとはすっかり空っぽになっていた。  母の部屋は夫婦の寝室でもあった。ダブルサイズのベッドが置かれていたけれど、父は母が家を出て間もなく一人用のベッドを買い直し、自分の部屋に置いてそこで寝起きしていた。けれど夫婦のベッドは、いつまでもそのままそこにあった。大型家具を処分するのが単純に面倒だったのか、父に何らかの複雑な想いがあって放置していたのかはわからない。けれどとにかく不動の位置に存在していた、そのベッドさえもなくなっていた。   母が集めていたCDやDVDも見当たらない。焦る気持ちを抑えてクローゼットを開ける。そこには母の服が何着も並んでいた筈だ。でも、それも無くなっていた。鞄も、ハンカチ一枚すらない。もぬけの殻だ。  父が母の部屋を片付けるなんて、思っていなかった。いや、でも、考えてみれば当たり前だ。自分を裏切って勝手に家を出た妻の私物を後生大事に取っておく義理なんてない。綺麗さっぱり処分する方が自然だ。  でも、母の残したものから手掛かりを探そうと思っていた私の当ては外れた。  がっかりして、床に置いてある段ボールを何気なく開いた。封はされていなかった。  中には私が小さな頃に描いた絵や、拙い手作りの工作品が入っていた。お母さんありがとう、と花の絵が描かれたカードもある。幼い私が母に贈ったものが纏めてあるのだろう。  そうか、父はこれを処分出来なかったのか。全部、母が置いて行ったものなのに。  他の箱には何が入っているんだろう。  隣に置いてある段ボールも開けてみた。  「……あ」  小さな声が私の口から漏れ出る。  その箱の中には薄い写真のアルバムと、手帳が入っていた。手帳の表紙に書かれた西暦は、私が小学校を卒業する前の年のものだった。  母が家を出た年だ。    
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