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壱己は有言実行だった。
べったり張り付いてやろうか、と言っていた通り、週末の二日間、私の部屋に居座って帰ろうとしなかった。
「灯里、一緒に風呂入ろ」
「何言ってるの?頭でも打ったの?」
「お互い裸なんて見慣れてるだろ」
「見慣れてるんなら希少価値ないでしょ。わざわざ一緒に入る必要ないんじゃないの?」
「希少じゃなくても価値はある」
「血迷ってないで、そろそろ帰りなよ。私も一人でやりたいことあるんだから」
「やってていいよ。俺も持ち帰りの仕事してるから気にすんな」
「気になるよ」
「そんなに俺のことが気になる?何も手につかないくらい?」
「馬鹿じゃないの」
「そうじゃないなら居てもいいだろ。邪魔はしないからさ」
似たようなやり取りを土曜と日曜の夜に繰り返した。
長らく秘めていた心の内を吐き出した壱己は、完全に開き直っていた。
好意と欲望を隠そうとしないどころか、剥き出しにして全力で押し付けてくる。
押しに弱い、と指摘された通り、私は壱己の思うまま振り回され、両日とも、夜にはぐったり疲弊していた。
でも、気付いたことがあった。
壱己と一緒に眠ると、どうしてかあの夢を見ない。
一度目は、偶然かもしれないと思っていた。でも二度目三度目も、普通の夢は見ても、あの夢は見なかった。
それだけじゃない。
壱己といると、あの人に会いたい、という欲求が薄れていくのがわかる。
例えば、誰かに恋愛感情めいた気持ちを抱いたとする。でも相手が自分に全く興味がないことを知ってしまったとする。そんな時に、自分にはっきりと好意を伝えてくる別の人が現れる。
そういう状況で、前者に対する興味が薄れていくのは当たり前のことかもしれない。
でも、なんというか──そういうのじゃなかった。
数日前まで私が感じていた、あの人に会いたい、夢でもいいから会いたい、という強い欲求。それが、月が欠けるようにゆっくり消えていく。
それは例えるなら、飢餓状態でいるところに一匙ずつ重湯を摂っていくような。脱水状態の時に緩慢に落ちる点滴で水分を補給していくような。頭が割れそうなほど酷い頭痛が、投薬によって徐々に引いていくような。
制御出来ない暴力的な欲求、衝動、あるいは症状が、適切な方法で治療されていく──そういう感覚に近かった。
「灯里」
眠る為に照明を落とす。壱己は当たり前みたいに隣に潜り込んできて、私を抱き締める。優しく抱き締めて、頭を、髪を、背中を撫でる。でもそれ以上のことはしてこない。
「…しないの?」
「お前がしたいならするけど。勿論」
「そういう、わけじゃないけど…」
私たちが一緒にベッドに入る時はいつもそれを目的にしていたから、いつまでも撫でるだけで手を出してこない壱己に、私は少し戸惑う。
「何もしないで一緒に寝る方が、希少価値あるだろ」
壱己はそう笑う。
馬鹿なことを。
でも、そうかもしれない。
かすかな衣擦れの音と、同じ柔軟剤の香り。何度も裸で繋がり合ったのに、こうしている方がむしろ、ちゃんとわかる気がする。壱己がどれほど私を大事に思ってくれているのかが。
壱己が私を大切に扱ってくれることを、私は素直に喜べない。受け止められない。壱己と同じだけの疑う余地のない一途な気持ちを、私は持ち合わせていない。
壱己に対する深い親愛の情は、かつて確かにあった。でもそれを今さら、曇りない恋愛感情に転換出来るのかどうか、わからない。
第一、私はそれを受けるに値するのか。おかしな能力があって目も合わせられない、その上他の男の人の影を心の隅にちらつかせながら、壱己の腕の中にいることに甘んじている私に。
「…私、まだ何にも決められてないよ。壱己の気持ちに応えられるかわからない」
「わかってるよ。だから今の内しか出来ないことしてるんだよ」
だってお前に断られたら、もう二度と会えないんだ。
壱己の小さな声は、私の髪の隙間に埋もれて消えていく。
肌に馴染んだ壱己の体に抱かれたまま、私は眠った。夢の中には壱己の言っていた仔猫が出てきた。
寒い夜だった。久しぶりに会ったその子はもう仔猫ではなく、私の倍くらいある大きい猫に育っていた。これじゃ妖怪だ。笑う私に、その子はミャアと可愛く鳴いた。
ふんわりと暖かいお腹の内側に私を招き入れ、私はただその体温に守られるように、夢の中でも眠った。
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