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彼女が指差すのは自分の隣の席。椅子を塞いでいた鞄をどけて、小谷さんは手招きをする。
謝意を示したとも辞退したとも取れる曖昧な仕草でやんわり手を上げて、私はそうっと踵を返す。そこに座るくらいなら、立って食べた方がマシだ。
けど彼女はわざわざ立ち上がり、いっそう声を張る。
「白崎さーん⁈ここ空いてるからどうぞー。座って下さぁい!」
高いトーンの声は、喧騒の中でもよく響く。周囲の人達の視線が彼女とその視線の先にいる私に集まった。これだけ衆目を集めてしまったら、無視して立ち去る方が不自然だ。私は諦めて、彼女の隣にトレイを置いた。
彼女は一人ではなかった。同じ受付の制服を着た年上の女の人が一人と、私より少し若そうなスーツの男性社員が一人。メイクやアクセサリーの影響なのか、いずれもどことなくキラキラしていて悪酔いしそうだった。三人の物珍しそうな視線を浴びながら、いたたまれない気持ちで椅子を引く。
「…失礼します」
なるべく距離が空くように椅子を動かしたけれど、元々間隔の狭い並べ方だ。悪あがきしたところで十数センチしか変わらない。
とにかくさっさと食べて席を離れよう。そう決めて、スプーンで山盛りにオムライスを掬い取った。
「白崎さんって、あの?菜々香、知り合いだったの?」
もう一人の女性の方が、片肘を突きながら小谷さんに尋ねる。『あの』って何、と思ってすぐに、壱己から聞いた噂話を思い出す。きっと、それを知っている人達なんだ。
「こないだ備品室で会ってお友達になったんですよぉ。ね、白崎さん」
皮肉めいたことを言われた記憶はあるけど、お友達になった覚えは全くない。とはさすがに言えないから、ただ黙って微笑んで濁す。
「お友達かぁ。何か意外。菜々香ちゃんとは随分タイプ違そうに見える」
小谷さん以外の二人は、私に特別な悪意はなさそうだった。けれど、無自覚に私を軽んじている様子があった。彼らはほぼ無意識に他人と自分の格付をして、そして私は彼らより下に位置付けられたのだろう。そんなのは彼らだけでなく多くの人がやっていることだし、私はそういう扱いには慣れている。
私は彼らの会話を聞き流しながらどんどんオムライスを切り崩す。私が彼らを気にしないのと同じように、彼らも私を気にせず勝手に会話を続ける。
「えー、違うかなぁ。残念。私、白崎さんのこと尊敬してるのに」
「尊敬?あぁ、経理部で賢そうって?」
「違う違う。白崎さんってすっごいモテるんですよー。ほら、沢村さんの部署の、芦屋さん。あの人と付き合ってて!」
小谷さんの声が、一際甲高く響く。周囲の無関係な人達も、耳をそばだてているのがわかった。
「…私この間お伝えしましたよね。芦屋さんとはただの同期で…」
「えー?じゃあこれ人違いかなぁ。私前に二人一緒にいるとこ見てー、すっごいラブラブで…ね、ほら、これ見て」
素早くスマートフォンを操作して、小谷さんは私を含めた四人全員が見える位置に置く。
──あぁ。何だ、こんなものか。
私はその画像を一目見て、拍子抜けした。
それは夜の街を並んで歩く私と壱己の写真だった。仕事帰りらしいスーツ姿の壱己が、私の肩に手を掛けて軽く抱き寄せている。
それだけだ。たったそれだけの画像だ。
良かった、この程度ならいくらでも誤魔化せる。
「同窓会です」
私がオムライスを飲み下しながらさらりと言うと、三人は「え?」とこちらに注目した。
「私と芦屋さん、元々同級生だったんです。この日は同窓会があって、会場の場所がよくわからなかったから一緒に向かったんです。肩に触ってるのは私が人とぶつかりそうになったので、芦屋さんが避けてくれただけです。あの人紳士なので」
すらすらと嘘が口をついて出てくる。元同級生なのはもう一部には伝わっている。壱己が紳士だなんて露ほども思っていないけど、今の壱己の外面の良さを考えればこれで凌げる。
「それよりこの画像、消していただけますか。芦屋さんとの御関係は存じ上げませんが、私は貴女とは一回挨拶を交わしただけでお名前も知りません。知らないところで撮られた写真を持ち歩かれるのは困ります」
小谷さんの名前は壱己から聞いたから知っているけど、自己紹介をされた訳でもない。知らない方が自然なのだ。
私はちょっと、不愉快な気分になっていた。
知らない癖に。
壱己と私の間にある複雑で形容し難い経緯を、かけら程にも知らない癖に。面白おかしく騒ぎ立てないで。
「なんだ、友達って思ってるのは菜々香だけなんじゃん」
女の人の方がくすりと笑った。なんだ。友達じゃないのはここも同じか。
小谷さんはじろっと彼女を睨んで、同じ目付きのまま、私の方を見た。私はそっぽを向いてオムライスの消費に取り掛かる。
「…白崎さんって思ったよりなんか、怖い。じゃああれはー?天河さんと、研究室でー…」
その時、私の上から影が差す。ぬっと突き出た腕が小谷さんのスマートフォンを取り上げる。私はその腕の持ち主が誰か、すぐわかる。
私は心の中で、頭を抱えた。あぁ、余計面倒なことになりそう──。
「よく撮れてる」
壱己はにっと笑って、画面を私の目の前に差し出した。
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