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私の向かいに座っている沢村さんと呼ばれていた男性社員は、小谷さんの話振りからして壱己と同じ部署なのだろう。壱己を見て、気まずさを誤魔化すような笑顔を浮かべた。
「お疲れ様です。今ちょうど、芦屋さんがこの白崎さんと同級生だったって話を…」
「あぁ、その話?デカい声で俺の噂話してるの聞こえたから、何かと思った」
壱己は二列挟んだ斜め奥の席を顎で示した。ひとつの空席の隣に諸山部長と柳原さんがいて、こちらの様子を窺っている。案外近くにいたのに、人が多くて全然気付かなかった。
考えてみれば、休憩時間の社員食堂に壱己がいるのは当たり前だし、小谷さんの大きな声で私が彼女と一緒にいることに気付くのも当たり前と言えば当たり前だ。
でも、何かもういいや。どうでもいい。
私は考えることを放棄した。
壱己がどう出るのかわからないけれど、不安まみれだけど、止めても無駄。小谷さんは単に私を貶めたいだけだろうし、私は何を言われようが、どうせ元々評判がいい訳じゃない。構わない。どうでもいい。
みんな、やりたいようにすればいい。
元々私は気付かぬ内に巻き込まれただけの部外者みたいなものなんだ。
壱己が現れたのを見て、小谷さんは慌てて睥睨する目付きを元に戻した。
「芦屋さんっ。あの、その写真は」
「暗いのによく撮れてる。俺も保存しときたいくらいだよ。なぁ白崎」
壱己は私の背後に立ったまま、腰を屈めて私に同意を求める。
こっちに話を振るな。
私は強い意思を持って、全力でそれを無視した。とにかくこのお皿の上のオムライスを完食しようと決めて、取り落としかけていたスプーンを持ち直す。
私の隣に座っていた数人のグループが、トレイを持って席を離れる。食事を終えたからなのか、すぐ傍で不穏なやり取りが繰り広げられるのに嫌気が差して離席したのかはわからない。とにかく空いた隣席に、壱己はどすんと腰を下ろした。
「連絡先教えてもらえたら芦屋さんにも写真送りますよー?」
壱己の嫌味を本気にした訳ではなかろうが、小谷さんは可愛らしくちょこんと両手を差し出して、スマートフォンを返してと言いたげな仕草をした。
「そう?ありがとう。でもいいかな。連絡先なんて教えたら最後、面倒臭そうだからさ」
壱己はスマートフォンを、差し出された掌ではなくテーブルの上にトンと置いて返却した。接触を避ける仕草と、あからさまに連絡先の交換を拒否する返答。小谷さんはぐっと眉間に皺を寄せた。
「面倒臭そうって…」
「画像は削除した。わかってるかな。こういうのは盗撮って言うんだよ。他にバックアップあるならそれも消しといて」
口元は笑みの形をしていたし口調も静かだったけれど、壱己の言葉は充分に剣呑だった。
「そんな勝手に…ひどい」
小谷さんはスマートフォンを取り戻すと、さらに苦々しい顔で呟いた。壱己はそれを無視して、テーブルに片肘をついた。
「小谷さん…沢村もだけどさ。うちの社内倫理規定、ちゃんと把握してる?」
「倫理規定?」
「沢村は知ってるよな。派遣でも資料くらいは渡されてるんじゃないかな。口うるさく長々書いてあるから覚えちゃいないだろうけど、その中にあるんだ。『悪質な流言飛語等、個々の尊厳を損なう行為に及んだ場合、降格降級及び減給の対象とする』ってのが」
「悪質な、りゅうげん…?」
「タチの悪いデマってことだよ。あんたがさっきこいつに向かって言おうとした事がそれに該当する。沢村、お前が飲み会でベラベラ喋ってた、あの糞みてぇな噂話の事がな」
壱己はもう、普段の外付けの良さを保つつもりはないようだった。鋭い目で小谷さんと沢村さんを睨み付ける。
小谷さんは、再びスマートフォンを操作して壱己の前に叩き付けるように置いた。
「デマじゃないですよ!私見たもん、研究室で二人がキスしてるとこ。証拠写真だってあるし」
そこに映っているのは、研究室の椅子に座った私と、その前に跪いて私の顔を手のひらで覆う天河さんの姿だ。物陰から撮ったらしく画像は遠くて粗く、キスしていると言われればそう見えなくもない。
これはあの時の写真だ。
私の目に液剤が入り天河さんが処置をしてくれたその後の──彼の夢に落ちる直前の、私達だ。
私は壱己の顔をちらりと盗み見る。この状況になった経緯を壱己は知らない。この写真を見て、壱己はどんな反応をするんだろう。
壱己は至極淡々とした顔でスマートフォンをさっと取り上げ、その画像もためらいなく削除した。小谷さんはあっという形に口を開けたが、もう遅い。
「もう一個、社内倫理規定の話をしようか。『会社の敷地内において本来の業務から逸脱し規律を乱す行為に及んだ場合、相応の処罰を下す』。あんたの話が本当なら、この二人はそれに該当する事になるよな」
「そうでしょう⁈悪いのは白崎さんの方…」
「だからこの件に関しては開発部と企画部の部長で聞き取りをした。沢村、お前は知ってるよな。噂を広めようとした張本人だからって呼ばれたろ?」
沢村さんとやらはバツの悪そうな顔で俯いて頷いた。小谷さんはきっと沢村さんを睨み付ける。
「何それ。聞いてないんだけど」
「いや、それは…」
「元々の出所が誰かってのを、沢村は正直に喋っちまったからな。密告った立場としては報告出来ねぇだろ。そうだよな、沢村」
壱己と小谷さんの圧に挟まれて、沢村さんはただ小さく身を竦めるばかりだった。
(何それ。私も聞いてないんだけど)
私は黙々と咀嚼を続けながら、ほんの少し壱己を恨めしく思う。私の知らないところでそんな調査が行われていたなんて、知らなかった。壱己もそんなに詳しく把握してるなら、教えてくれたらよかったのに。
「二人が研究室で何をしてたのかは確認が取れてる。だからこそお咎め無しなんだ。詳しい事が聞きたかったら本人に聞けよ。ほら、ちょうど来たから」
壱己はポンと私の肩を叩いて、社員食堂の入口を顎で示した。他の三人もそちらに目を遣る。
一足遅れて顔を上げた私は、思わず咽せそうになった。
手を挙げた壱己を見つけてゆっくりとこちらに向かって来るのは、本人──つまり、天河さんだった。
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