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目の粗い生地で内臓を撫でられたみたいに、私の内側がざらついた。
前回のモニタリングで会ってからまだ一週間も経っていないのに、すごく久しぶりに顔を見た気がした。
天河さんはするすると混雑の隙間を縫ってこちらへ近付き、空いていた壱己の前の椅子を引く。ちょうど食べ終わったところで良かった。私は今この人の前で、何かが喉を通る気がしない。
「白崎さん、ごめんね。僕の不手際で迷惑掛けてるみたいで。芦屋君も知らせてくれてありがとう」
天河さんは私に向けて頭を下げた。私はその最後の部分に引っ掛かって、思わず壱己の袖を掴んで小声で尋ねる。
「壱己が呼んだの?」
「違う。諸山部長」
「何でそんな余計なこと」
「誤解されるような状況になった原因が天河さんの過失だからだよ。本人の希望だったんだ。その噂の件でお前に迷惑が掛かるようなら自分が説明するから知らせて欲しいって言われてたんだとさ」
「うん、僕が頼んでたんだ。えぇと…この人達に説明すればいいのかな。沢村君と…」
天河さんは小谷さんともう一人の女性社員に向けて、軽く会釈をした。沢村さん以外とは初対面みたいに振る舞いだ。壱己の話では小谷さんとも面識があるみたいだったけど、もしかして覚えていないんだろうか。
「おかしな噂が流れてるらしいけど、芦屋君が言ってた通り僕の過失なんだ。モニタリング中にサンプルを溢して、液剤が白崎さんの目に入ってしまった。その処置の為に通常とは違う接触をしただけなんだ。それを誤解されて白崎さんには重ねて嫌な思いをさせてしまって、本当に申し訳ないと思ってる」
ごめんね、と天河さんはもう一度私に向けて謝罪した。最初に口を開いたのは、もう一人の女性社員の方だった。
「まぁどうせデマだろうなって思ってたけど…それより何で菜々香がそんな写真を持ってるの?私もモニター参加したことあるけど、あれって基本業務時間内にやるじゃん。うちら受付は別棟に用なんてないでしょ?仕事サボって覗きに行ってたってこと?」
「ち、違うよ。たまたま…」
「研究室って外からは中が見えない造りになってるじゃん。たまたま撮れる写真じゃないよ。菜々香、よく研究室の使用状況チェックしてるもんね。天河さんが使ってるとき狙って行ってたんじゃないの?」
「だから違うって。あの時は忘れものを…」
諍う二人の会話を、壱己が遮った。
「それに関しても調べようとしたんだ。白崎のモニタリングの時間帯、あんたはいつも通り受付にいる予定だったよな?受付は基本二人体制だからその日あんたと組んでた相手に確認した。あんたが仕事中に抜けて戻って来ないのなんてしょっちゅうだからいちいち覚えてないって言ってたってよ」
「そう!そうなんだよね。だから受付の子みんな、菜々香と組むの嫌がるんだよ」
「ちょっと、今そんな話…」
受付同士の内輪揉めが再び始まりそうになった時、休憩終了十分前のベルが鳴った。
「…まぁそういう事だな。あんたは調査がない代わりに、来月の派遣更新前に総務部長から個別面談があるってさ。それでなくても、白崎に関する変な噂話は二度とするな。今度耳にしたら俺が許さない」
「何で芦屋さんにそんなこと言われなきゃいけないの⁈関係ないじゃん!」
顔を真っ赤にした小谷さんの金切り声に、また周囲の視線が集まった。
「関係なくない。俺はこいつが好きだから」
壱己が毅然とそう告げた途端、周囲がざわめいた。黄色い悲鳴のようなものまで聞こえる。多分、壱己のファンの子達だろう。
あぁ。頭痛がしてきた。
言うと思った。そんな気がしてた。やっぱりちゃんと口止めしておけば良かった。
胸の中で、後悔の嵐が渦巻く。
「や…やっぱり付き合ってるんじゃない!嘘吐き!」
小谷さんはどうしてか私に矛先を向ける。でもそれを挫いたのも、壱己だった。
「付き合ってない。俺の片想いだよ。でも灯里を侮辱したり傷付けたりする奴は俺が許さない」
壱己は立ち上がって、空になった食器が乗った私のトレイを持ち上げる。
「もう時間だぞ。ほら灯里、行こ」
この場面で壱己に従うのはどうなんだろうと思ったけれど、実際もう部署に戻らなければいけない時間だ。重い腰を持ち上げて立ち上がると、軽い眩暈がした。
他の人達も続々席を立ち、それぞれの部署に戻っていく。天河さんも立ち上がった。
「あの、ありがとうございました」
私は小さくお辞儀をして、壱己の後に着いて去ろうとした。
「白崎さん」
名前を呼ばれて、私は振り向く。
「君と植えた種、芽が出たよ」
それだけ言うと天河さんは、さらりと私を追い越して別棟に向かった。いつもの淡くやわらかい、微笑みだけを残して。
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