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私の在籍する経理部には、十人程の社員がいる。
正確に数字を処理する必要があるために私語は少なく、業務連絡や内線電話の会話以外には、電化製品のモーター音くらいしか聞こえてこない。人によっては息の詰まる環境かもしれないけれど、私にはちょうど良かった。
他部署の人が業務上の用件で経理部を訪ねてくると、にわかに空気が動く。いつもは両肩に質量を感じるほど重たい空気が、ゆっくりと雲が流れるように掻き消されていく。
その日の午後、経理部を訪れたのは企画部部長の諸山さんだった。四十代後半の若々しくて快活な男性で、明朗な声がよく響く。社内でも目立つ部類の人だったから、その人が私のデスクの前で立ち止まっても、私に用事があるのだとは思いもしなかった。
「白崎さん」
名前を呼ばれても尚、彼の声は私の頭上を素通りしていた。
「白崎さん、ちょっといいかな」
二度目に名前を呼ばれてようやく、話しかけられているのが自分だと気付いた。
なるべく目が合わないように、それでいて相手の機嫌を損なわないように、慎重に顔を上げる。この匙加減にはいつもとても気を遣うし、失敗することもあるから面倒だ。でも今回は成功したみたいだった。目の端で諸山部長の表情を確かめると、穏やかな笑みを浮かべている。
「頼みたい仕事があるんだ。益子さんには許可を貰ってるから」
益子さんは経理部の部長で、諸山部長と同じ年頃の女性社員だ。ちらりと益子部長の方を見ると、彼女はふくよかな頬を緩ませ、ゆったり口角を持ち上げて微笑む。
「いってらっしゃい。お願いね」
そう、小さな声と口の動きで伝えてくる。
私はこっそり溜息を吐いて、席を立った。他部署の長が、私のような凡庸な平社員に何の用があるんだろう。
第二会議室を取ってあるからと、先に立って歩き出す諸山部長の後ろについて経理部を出た。
会議室に入ると、二人の男性社員が既に部屋で打ち合わせ中だった。コの字に長机が設置されている部屋で横並びに座って、ノートパソコンを開いて何やら真剣に話し込んでいる。
諸山部長がドアを開けると、二人は同時に顔を上げてこちらを見た。
諸山部長が手のひらを上に向けて私を指し、二人に紹介する仕草をする。
「こちらが経理部の白崎さん」
話したこともないし名前も知らない二人だったけれど、一人は壱己と一緒にいるところを時々見かける。私が一礼すると、その人は立ち上がってにこやかに名刺を差し出した。
「初めまして、企画部の柳原です。お忙しい中お呼び立てしてすみません」
私は名刺を持って来なかったことを謝って「経理部の白崎です」と名乗って会釈をした。
もう一人の男性は座ったままだ。自分も名刺を持って来ていない、と、ぼそりと呟いたきり名乗りもせず、眉間に皺を寄せてPCの画面と手に持った資料の間で視線を動かしている。先刻まで話していた打ち合わせの内容に集中して、気を取られているのだろう。心ここにあらずという様子だった。
冬の夜明け前を思わせるような、張り詰めた冷たい空気を纏っている人だと思った。
前髪が目にかかるくらい長くて、すらりとした長身を持て余すかのように猫背気味に机に肘をついている。
私は少しほっとした。
諸山部長も柳原さんも、しっかり相手の目を見て話し、為人を見定めてコミュニケーションを図ろうとする人達だ。人としては長所といっていい資質だろうけど、私にとってはむしろこの人の、初対面の私を肩に落ちてきた木の葉程度にしか扱わない、いかにも興味が無さそうな態度の方が気が楽だった。
けれどその人は、唐突に我に返ったように顔を上げて私を見た。軽く見開いた目は、何故か少し驚いているようにも見えた。
その人はガタン、と椅子を鳴らして席を立ち、急に距離を詰めてくる。
「白崎さんって、モニターの?」
ばちっと、真っ向から目が合う。避けようのない不意打ちだった。
意外なほど滑らかに素早く動き、条件反射でぱっと顔を背けた私の髪を一束、大きな手で掬い上げた。
「──うん。いいね」
その人は私の髪を指の腹で敬うような手付きで撫でて、微笑んだ。
夜明け前の鋭く尖った冷たさが溶けて、やわらかであたたかい昼中の日差しになった。
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