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針の筵とはこのことか。未だかつて、私がこんなに注目を浴びたことはなかった。
私たちが乗ったエレベーターは同乗する殆どの人が社員食堂から戻るところで、さっきの揉め事を目の当たりにした人達だ。皆が息を詰めて、私たちの言動を窺っているのが手に取るようにわかる。
そしてさっきの天河さんの一言で壱己の心の中が荒れていることも、肌で伝わってくる。
「種って何の話?」
「……ちょっと話が長くなるから、今は……」
私が小声で歯切れ悪く答えると、壱己は人目も憚らずちっと舌打ちした。猫かぶりの外面は完全に捨てることにしたのだろうか。
でも、何で私が悪いことをしているような気持ちにならなければいけないのか。例え私が実際に現実で天河さんと何かあったとして、何で壱己に報告しなければいけないのか。壱己は彼氏じゃない。私が誰と何をしようが、怒る権利なんてないじゃないか。
頭ではそう思うのに、私はやっぱり壱己に後ろめたい気持ちを抱くし、弁解めいた言葉をくちにしようとしている。
エレベーターはあっという間に壱己の降りるフロアに着いた。
「…連絡する」
私の顔を見ずに壱己は小さくそう呟いた。両開きのドアがゆっくりと閉まり、壱己の背中もぱたんと見えなくなった。
数時間後に壱己から、今日は定時過ぎから来客と打ち合わせがあって深夜になるから会えないとメッセージが届いた。明日は早目に仕事を片付けるから予定を空けておけ、とも。
私はそれを見て少しほっとした。
壱己は詳しく話を聞かなければ納得しないだろうけど、上手く説明する自信がまるでなかった。
壱己にはまだ話せていない夢読みに関する話だし、何より私自身が、混乱の真っ只中にいるのだから。
あの人は夢で会ったことを覚えていない。
そう思っていた。
でも天河さんが口にしたのは、夢を覚えていなければ言えない内容のこと。
それも、私もまたあの夢を覚えているという確信が無ければ、言わない内容のことだ。
天河さんは、私と夢で会ったことを覚えている。
ならどうして、先週会った時は何も言わなかったんだろう。
いや、そんなことは大した問題じゃない。
その夢を私が覚えていると、どうして知っているのだろう。私は何も話していないのに。
まるでそれらの夢が、現実と地続きであるというような口ぶりで──。
思えば今までに無いことばかりだった。
読めない夢。
白紙の本。
書架の奥にある扉。
そこでは私は傍観者ではなく、舞台に立った演者のように、自由に動くことも会話を交わすことも出来る。
そしてその夢は、主の意思ひとつで自在に舞台を変える。
彼の夢は最初から特別だった。
その理由は、彼自身が特別だからじゃないだろうか。
夢に関する何か特別な能力を持った人だから──そう、もしかしたら、例えば、私と同じような。
「白崎さん、残業?」
不意に声を掛けられて、私ははっとした。
声のした方を見ると、益子さんが上着を着て帰る準備を整えているところだった。
「残りは明日にして、もう上がったら?急ぎの仕事はなかったでしょう?」
周りを見ると、部署内で残っているのはもう私と益子さんだけだった。いつのまにこんな時間になっていたんだろう。気付いたら定時を二時間近く過ぎている。
「それとも何か難しいところあった?白崎さんがこんなに手こずるの、珍しいね」
「いえ、あの…」
益子さんはとことこ私のデスクに近付いてきて、ひょいと画面を覗き込むと首を傾げた。私の開いていた画面が、日々ルーティンで行う単純な作業だったからだ。それすらあまり進んでいない。
「…すみません。今日は全然集中出来なくて」
「あぁ、まぁそういう日もあるよね。だったらますます早く切り上げた方がいいわ」
「…すみません…」
理解を示してくれる益子さんの懐の深さに、私は内心感謝した。
深い溜息を吐いて画面を閉じる私に、益子さんはにこにこと誘いかける。
「ねぇ白崎さん、もし予定がなければ、ちょっとだけ付き合ってくれない?一緒にご飯食べようよ。前に話してた多国籍料理のお店、久しぶりに行きたいなぁって思ってたの」
「ごはん…ですか…」
「うん、もし良ければだけど」
誰かとご飯を食べに行くような気分では全くなかった。でも、山積みの考えごとは複雑に交差していて、それらについて一人で延々と考えを巡らすのも、想像するだけで憂鬱だった。誰かと一緒にいれば、少しは気が紛れるかもしれない。夢や壱己や天河さんのことを考えずに済む時間を作りたい。
「…行きます」
私が頷くと、益子さんは少女のように「やったぁ」とはしゃいだ。
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