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益子さんは小柄な割によく食べるし、よく飲む。
私自身はどちらかと言うと食の細い方だから、たくさん食べる人を見るのは好きだ。見ていて気持ちいい。
益子さんが冬眠前のシマリスみたいに熱心にごはんを頬張るのを見て、私はほんの少し和んだ。苦手な年上の女性の筈だったけれど、かわいらしいなと思った。
そういえば、壱己も見かけによらずよく食べる。見かけによらずと言っても、壱己は着痩せするだけで、実際は結構筋肉質だ。背も高いし、食べる量が多いのも当然かもしれない──なんて考えていて、はたと我に返る。考えたくないと思って益子さんの誘いに乗ったのに、結局壱己のことを考えている。
「お昼休み中、大変だったんだってね」
私全然駄目だなぁ、と思った矢先に、益子さんが直球を投げてくる。思わず、うぅっと声に出して唸ってしまった。
「…あの、今日のその、それも、噂になってたりするんですか?」
部署でお弁当を食べていた益子さんは、当然あの場にいなかった筈だ。なのに今日の今日であの騒ぎを知っているということは、相当話が広がっているのかもしれない。
「うーん…?どうなのかな。私はたまたま企画部に用があって諸山くんと会った時に、聞いただけなんだ。うちの芦屋と沢村が騒ぎにしちゃって申し訳ないって、謝ってたよ」
「いえ、別に諸山部長のせいじゃないですし。…でもその件で、いつ…芦屋君が何か処罰を受けたりする可能性は…」
私は壱己の話していた社内倫理規定を思い出していた。私も事細かに覚えてる訳じゃない。壱己の言動は、それの何かしらに引っ掛かったりすることはないんだろうか。
「あぁ、それはないない。それまでの経緯があるし、昼休み中の事だし。別に社内恋愛禁止な訳じゃないから。諸山くんには彼女の立場も考えろって怒られたらしいけどね」
「…社内恋愛…」
ものすごく違和感のある単語だ。私たちは同じ会社に勤めるずっと前から繋がりがあって、社内ではむしろほとんど関わることがない。だから会社の同僚という一面を強調されると、何か違うような気がする。それ以前に、私と壱己は恋愛をしている訳じゃないし。
私の渋面で何かを察したのだろう、益子さんは「あ」と片手で口を覆った。
「ごめん。付き合ってる訳じゃないんだっけ」
「それはその…はい。そうしたいとは、言われてるんですけど…」
「断ったの?」
「い、いえ。ちょっと返事を待ってもらってる状況で」
「そうなんだ。白崎さんはあんまり乗り気じゃないの?他に付き合ってる人がいる訳じゃないんだよね?昔はもっと仲良かったんでしょう?芦屋くんはその頃からずっと白崎さんのこと好きだったみたいだけど…」
「ちょ、ちょっと待ってください」
想像の数倍、益子さんからの追求は激しい。その上知る由もないと思っていた情報まで把握していて、私は混乱する。制止された益子さんは、あっと口を押さえて乗り出していた身を引いた。
「ごめんね、つい。ほら、私くらいの歳になると、もう友達も結婚して熟年夫婦になってるか独り身を貫くことを決めてるかどっちかで、恋愛の話なんて聞かなくなるでしょ。でも私、自分が経験が少ないせいか未だにそういうドラマとか小説が大好きで…芦屋くんの話聞いたら漫画みたいで素敵って盛り上がっちゃって…上司がこんなこと聞いたらパワハラでセクハラでプライバシーの侵害だよね。ごめんね、忘れて」
益子さんは恥じらうように視線を泳がせた後、しゅんとした。何故か私の方が悪いことをしたような気になって、慌ててとりなす。
「い、いやその、そこまで思ってません。ただ、何で益子部長がそんなこと知ってるのかなって驚いて…」
「あ。そうだよね。私、実は芦屋くんとはよく会うんだよね。勿論二人きりじゃないよ?私お酒好きだから諸山くんが企画部の若い子達と飲みに行く時に誘ってもらう事が多くて、ほら、芦屋くんと柳原くんとか、諸山くんが特に可愛がってる子達は大体いつもいるのね。芦屋くん、一度酔った勢いで白崎さんの話…話っていうか思いの丈を…こう…ドバッと吐き出しちゃった事があって、それ以来、諸山くんと柳原くんが面白がっていじるようになっちゃって、芦屋くんも開き直って赤裸々…正直に話すようになって、それで」
すらすら出て来る益子さんの弁明に、私は青ざめた。
何を。
何をどこまで話してるんだ。
「……あの馬鹿……」
思わず呪詛の言葉を漏らす私に、益子さんは慌ててフォローを入れる。
「いやっ、でもそんな細かいエピソードとかは聞いてないよ⁈通りいっぺんだよ。中二の時クラスが一緒で仲良くなって毎日部屋に入り浸るくらいの関係だったけどちょっと拗れて、何とか持ち直して今の関係に落ち着いて、でも芦屋くんはこのままじゃ満足出来ないってその程度の…」
通り一遍かもしれないけど、大筋は大体喋ってる。
信じられない。話す訳ないとか言っておいて、あれは小谷さんには話してないって意味だったんだ。他の人にはベラベラ喋ってたんだ。元同級生ってだけの関係なら隠す方が不自然とか偉そうに言っておいて。それ以上のことも話してたくせに、抜け抜けと。
私の中で湧き上がる怒りを察して、益子さんが慌てて宥めようとする。
「あ、あのね、でも芦屋くんがその話をするのは私と諸山くんと柳原くんだけの時で、勿論みんな他の人には何にも漏らしてないから。三人とも口は堅い方だから」
三人の口が堅くても、壱己の口が緩ければ意味がない。壱己への怒りはいっそう燃え上がる。
「…益子さんが妙に私を気にしてくれるのは、そのせいだったんですね。芦屋君から話を聞いて、私の本性を知ってたから…」
「えっ?本性って何?まぁ芦屋君から話を聞いて勝手に親近感持ったっていうのも無いわけじゃないけど。白崎さん仕事への向き合い方が真面目でいい子だなぁって思ってたし、でも不器用なところもあるから上司として出来る事はしなきゃと思って、それで気にかけてただけだよ」
益子さんは心からそう言っているように思えた。そうか、ちゃんと私自身を評価して心配してくれていたんだ。それで私の憤りは、少し凪いだ。壱己がちょろいと言うのは私のこういうところなのかなと、少し思った。
「ねぇ白崎さん。遠慮なく言って欲しいんだけど。この話、もうしたくない?」
益子さんが真っ直ぐにこちらを見るので、私は俯いた。誤魔化すように、手をつけていなかった冷めたコーヒーで舌を濡らす。苦い。ぐるりとミルクを回し入れると、あっと言う間に溶けて白と琥珀色が混ざり合う。
したくない。
そう思う反面、心のどこかで、誰かに聞いて欲しいような気もしていた。コーヒーとミルクみたいに混ざり合って、本当の色が見えなくなってしまった私の気持ちが、どんな色をしていたのか。
思い出したい。
「…聞いて欲しい、かも、しれないです」
私はゆっくりと首を振って、小さな声で呟いた。
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