今夜見る夢は甘い

6

　益子さんとは路線が違うから、店を出てすぐに逆方向に別れる。別れ際、益子さんに頭を下げて、お礼を伝えた。
　「そんな畏(かしこ)まらないで。また行こうね」
　「はい。また、是非」
　社交辞令じゃなくそう言えたことが、なんだか嬉しかった。

　駅までの道のりを歩きながら電話を掛ける。壱己はすぐに応答した。
　「仕事終わったの？」
　「さっきな。思ったより早く終わった。灯里、もしかして今、外にいる？」
　「うん」
　「どこ」
　「駅に向かってるとこ。近くで益子部長とご飯食べてたの」
　「珍しいじゃん」
　そういや明日は雪が降るって言ってたなと、耳に馴染んだ低い声が私を揶揄(からか)った。
　「駅で待ってるよ。家まで送る」
　「送る？」
　「何だよ、そのくらいいいだろ。夜の一人歩きは危ないんだぞ」
　「そうじゃなくて。泊まっていかないの？」
　私が問うと、通話口の向こうがしんと静かになった。
　そうだよね。驚くよね。私から泊まっていけばと誘うことなんて、なかったものね。槍でも降るかと疑ってしまうのも、当たり前。

　改札が遠くに見えてくる。
　すぐに柱にもたれて通話をしている壱己の姿を見つけた。
　背が高いとわかりやすくていいな。たくさんの人の中でも、すぐに見つけられる。私は平均身長で服装もメイクも地味だし、見つけ辛いだろう。
　そう思っていたのに、壱己はすぐに私に気付いた。片耳にスマートフォンを当てたまま、目を瞠(みひら)いてまっすぐに私を見つめる。

　距離があってよかった。
　このくらい離れていれば、私も壱己から目を逸らさなくて済む。

　通話を切ってスマートフォンを鞄に入れる。私のその仕草を見て、壱己も自分の機器をポケットにしまった。

　真正面に立った私を、壱己はそのままじっと見つめようとする。だから私は、いつもと同じように俯く。
　壱己の靴が視界に映る。忙しい割に綺麗に磨いてある。壱己は昔からそう。大雑把と意外な几帳面が共存している。

　「…あのね、壱己。私、ちゃんと考えたよ。でも、やっぱりわからない。私にとって壱己が特別なのは確かだけど、その気持ちが恋愛だとか結婚だとかに繋がるものなのかどうかは、わからなかった」
　「…知ってるよ。俺はそれでも…」

　壱己が私の頬に手を掛ける。触れた指先が冷たくて、私はひゅっと息を呑んだ。
　私の顔を上向かせようとするその手を、両手でぎゅっと掴んで止めた。それは冷たいから、ではなくて。壱己が私を見つめるからだ。真っ直ぐ正面から、見ようとするからだ。

　「私を見つめないで」

　私の語調がきつかったせいだろう、壱己が怯(ひる)むのがわかった。僅かな期待と重い不安がせめぎ合って、判決を待つ罪人みたいに、脈拍を乱しているのがわかる。

　「そうしないで欲しい理由があるの。それが私の隠しごと。ちゃんと話すから聞いて。それに私、気になる人がいるし、気になることがあるの。もしかしたらそれは私の隠しごとと関係あるのかもしれない。それを全部聞いてもまだ私のことを好きだって言ってくれるなら、ずっと一緒にいたいって言ってくれるなら…」

　私はそこで口を噤(つぐ)んだ。
　自分でも無茶苦茶なことを言ってると思う。好きかはわからないし気になる人もいるし、大きな秘密もある。それでもいいなら、なんて、いい訳ないのに。

　「───なら、何？」

　ずっと黙っていた壱己が、低く小さな声でぽつりと尋ねた。

　何て──次、何て言えばいいんだろう。もっとちゃんと考えてくれば良かった。

　付き合ってあげるなんて偉そうに言える立場じゃないし結婚したいと思ってる訳じゃない。ぴったり来る言葉が見つからない。
　壱己は何て言ってたんだっけ。
　結婚して。それが駄目なら結婚前提で付き合って。他にも何かあった筈。
　そうだ、さっき聞いたばかりの。確か遺骨がどうとか──あぁ、それが一番しっくり来るかもしれない。

　「…生きてる内にちゃんと添い遂げてから、一緒のお墓に入ろう」

　これで、合ってる？
　口にした途端に自信がなくなって、私は言い訳がましく早口で捲(まく)し立てる。

　「私、わからないことばかりなの。自分の気持ちもこれからどうしたいのかも壱己とどうなりたいのかも、全然わかってないの。でも壱己が私の人生からいなくなるのは駄目。それだけは駄目」

　それだけははっきりわかる。
　壱己がいないと、私は駄目だ。

　私は俯いたまま、ぎゅっと瞼を閉じる。そうしていても、強い視線を感じる。心臓が早鐘を打つ。壱己は今、何を思っているんだろう。何を思って、私を見ているんだろう。

　不意に、ぐっと腕を引かれた。
　よろめいた私を壱己が体で受け止めて、そのままぎゅっと力を込めて抱き竦(すく)める。
　「ちょっと壱己…ここ、外」
　それも会社の最寄駅。こんな時間とはいえ、誰に見られるかわからない。私は逃げようともがいたけれど、壱己は微動だにしなかった。

　「…話なんか聞くまでもないよ。お前が何を隠してても、俺はずっとお前の傍にいる。お前がそれを、許してくれるなら」

　耳元で響く壱己の声は、雪がちらつくように微かに震えていた。

　泣かないで。

　どうしてか、そう思った。
　腕の中にいる私には、壱己の顔は見えない。その目に涙が滲んでいるのかどうかはわからない。なのに何故か、私の中にはその願いが浮かんだ。

　それはかつての私の、一番の願いだった。

　壱己、泣かないで。
　大丈夫だから。私がずっと傍にいるから。
　悲しまないで。もう二度と、傷付かないで。

　私はもがくのをやめて、壱己の背中に両手を回した。
　自分より広くて大きな壱己の背中を撫でながら、あの頃のその気持ちが鮮やかによみがえるのを、感じていた。