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突然の行動に驚いて固まる私と、さらに毛先の方に指を滑らせてまじまじと検分するその人の間に、諸山部長が慌てて割って入った。
「天河君。君、いきなりそれはまずい。ほら、離れて」
子供を叱るように注意して、諸山部長は私とその人の間に割って入った。
「ごめん、白崎さん。彼、悪気はないんだけどなんて言うか少し…個性的な人なんだ。これもその、下心みたいなものではなくて研究熱心が過ぎての行動で。あのね、天河君。無断で女の人の髪触るなんて、セクハラで訴えられてもおかしくないからね」
私の髪の先を指に絡ませているその人の手を、諸山部長が指差して制する。
アマガ君、と呼ばれたその人は、自分の手元と諸山部長を見比べて、不可解そうに首を傾げた。
「セクハラ?髪に触っただけで?神経も通ってないのに」
「神経のある無しは関係ないだろう。髪の毛だって体の一部だよ」
諸山部長は呆れ、疲れたように肩を落とした。
「そもそも距離が近過ぎる。パーソナルスペースって聞いた事ない?いきなり踏み込まれたら驚くし、不快でしょ」
「…聞いたことはあリますけど。なら、具体的にどのくらい離れたらいいんですか」
「いや、そう聞かれても人によるけど…まぁ二メートルくらいみとけば充分なんじゃないかな」
諸山部長の、物分かりの悪い子供を根気強く躾けるような口振り。
何がなんだかよくわからないけれど、とりあえずこの二人が、上司と部下というよりも教師と生徒のような関係性だということだけは、なんとなく理解した。
アマガさんは反抗期に差し掛かった少年みたいな、憮然とした顔をする。それでも大人しく諸山部長の言うことを聞き入れ、私の髪を、ぱらりと指の隙間から零して解放した。
「…二メートルも離れたら、届かないな」
アマガさんはそう呟いて、未練を滲ませながら肩を竦める。手のひらを開いたり握ったりしながら、ふわりと宙を漂うように移動して自分の席に座った。ちょうど二メートルくらいの距離が、私と天河さんの間に生まれる。
「天河君、名刺ないなら自己紹介して」
諸山部長に促され、アマガさんは「あぁ、そっか」と、思い出したように私を見上げた。まだ戸惑いから抜け出しきれずぼんやりしていた私とアマガさんの、目が合う。
「製品開発部の天河です」
「あまがさん…」
「うん。天空の天にさんずいの河。天の河って書いて天河」
ほんの少し癖のある、柔らかそうな前髪の隙間から、淡い茶色の瞳が覗いている。
昔図鑑で見た、天の川の姿を思い出した。小さな星々を輪郭の外に散りばめながら、暗い夜空に帯を成す銀河。
「…綺麗な名前」
頭の中に浮かんだ本音を、私はうっかり口に出してしまっていた。天河さんはそれを聞いて柔らかく微笑む。
「ありがとう。白崎さんの髪も、綺麗だね」
彼は照れも遠慮もせずに私の賛辞を正面から受け取って、真っ直ぐに返した。
綺麗だと思ったのは名前だけじゃなかった。
ひっそりと静かな佇まいも、整った造形も髪や肌の柔らかな色合いも、何もかもが綺麗な人だと思った。
烟るような薄い色の髪に、肌理細かい肌。すらりと背が高く、細身とはいえ体付きはしっかり男の人なのに、顔立ちは中性的で線が細い。淡い色の目は私を見つめていても、どこか遠い世界を映しているように見えた。
日常の風景からこの人だけが切り取られたかのように、どこか浮世離れした独特な空気を纏っている。
思わず見入ってしまいそうになったけれど、踏み留まった。目礼する振りをして、噛み合っていた視線を外す。タイミング良く諸山部長が席を勧めてくれて、私は天河さんから三席空けたところのパイプ椅子に座った。私と天河さんとの間の席に諸山部長が着く。
「お騒がせして申し訳ない。仕事中に時間を取らせるのも何だし、本題に入ろう。白崎さんに頼みたい仕事の話なんだけど」
諸山部長は溜息混じりに、テーブルの上に無造作に置かれた書類の中から、一束取り上げて私の前に置く。経理部所属の私には見慣れない類の書類だ。一行目に太字で企画書と書いてある。
「企画進行中の新商品があってね。白崎さんに、社内モニターとして協力して欲しいんだ」
「社内モニター…?」
首を傾げた私の目の端に、テーブルに肘をついてやんわりと頷く天河さんの微笑みが映った。
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