8

9/19
258人が本棚に入れています
本棚に追加
/124ページ
 壱己はにこやかな笑みを引っ込めて、真顔で深く頭を下げる。  「無断で頻繁に出入りしていた事、今更ですがお詫びします。若かったとはいえ礼儀を欠いた行為でした。申し訳ありませんでした。ただ、当時の僕達は異性とはいえ純粋に友人同士で、疾しい行為は一切…」  壱己の真剣な態度に、父は慌てたように顔の前でひらひらと手を振った。  「あ、いや、そういうつもりじゃない。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、随分長い間、灯里の事を見ていてくれたんだなと思って…」  むしろ感心していたんだ、と、父はぼそりと付け足した。  驚いたような拍子抜けしたような様子で、壱己は目を丸くした。でもすぐに視線を落として、少し迷った後、躊躇いがちに口を開く。  「…いずれお話しする事になるかもしれないので、今聞いて頂けますか。当時、僕の家庭環境は劣悪でした。正直にお伝えするのも(はばか)られますが、具体的には母や僕に対する実父からの暴力行為です。父はもう十年以上前に亡くなりましたが、それまで僕にとって、自宅は苦痛を感じる場所でした。灯里さんは、そんな僕に逃げ場を与えてくれたんです」  私は少し、驚いていた。  いつもみたいに上っ面の愛想の良さで取り繕って、言葉巧みに丸め込んで結婚の承諾を取り付けるつもりだろうと、そんなふうに思っていた。これほど真正面から父との対話をするつもりだとは、思っていなかった。  「あの頃彼女が──この家が僕を庇護してくれたおかげで、未熟とはいえ大人になる事が出来ました。ありがとうございます」  壱己は改めて、深い礼をする。  いつも、人を食ったような態度でふざけてばかりいるのに。まるで別人を見ているみたいだった。  「…そうか」  父は眉間の皺をいっそう深くして、「そうか」ともう一度呟いた。  口を一文字に引き結び、しばらくの間考え込んでいた。何と応えればいいのか、悩んでいるのだと思う。  「…一度だけ、君と灯里が一緒にいるところを見た事がある」  えっと私は短く息を呑んだ。  「いつ…?」  思わず疑問を口にすると、父は気まずそうにちらりと私を見て「お前が中二くらいの時だったと思う」と小さな声で答えた。  「朝、通勤途中で忘れ物に気付いて、家に取りに戻ったんだ。そうしたら、玄関先でお前が男の子と話をしてた。何か、近所で事件があったとかで随分焦ってて、犯人がまだ近くにいるかもしれないから一人で出歩くなとか何とか…とにかくお前を心配してる様子で、お前は、もう捕まったんだよって言って笑ってた。その時のお前…君達が、何て言うかな…ただ、()いものに見えた」  私も人のことは言えないが、父も立派な口下手だ。傍目(はため)からわかるほど悩んで言葉を選んでいるのに、受け取る側にあまり真意は伝わらない。  「いいものって何」  私は無遠慮に突っ込んでしまう。  「いや、何かまぁ…彼氏っていうより兄とか近所の親しいお兄さんみたいに見えたし…野良犬が野良猫の世話焼いて仲良くしてるみたいな、そういう…とにかく、大人が無闇に引き離さなきゃならないような悪い関係じゃないんだろうなって思ったんだよ。だから近所の人にうちによく出入りしてる男の子がいるって聞いた時も、あぁあの子かって思ったくらいで、別にそれだけだった」  父は追求を避けるようにふいと私から視線を外し、壱己に向き直る。  「…君も聞いてるとは思うが、うちはうちで、ひどく不自然な家庭だった。僕は元々仕事しか出来ないろくでもない父親だったが、灯里がまだ小学生の頃に妻が家を出て以来、ますます家を空けるようになった。この子はほとんど一人で生活していたようなものだ。本来なら僕が家にいる時間を増やさなきゃいけない状況で、親としてあるまじき、真逆の行動を取っていた。辛い思いをさせている自覚はあったよ。それでも灯里は文句の一つも言わなかった。淡々と学業に打ち込み、黙々と家事をこなした。僕の分の晩飯まで毎日きっちり作り置いてくれたんだ。それを一緒に食べる事なんて、ほとんどなかったのに。…正直に言えば、君達の関係について口を出さなかったのは灯里への罪悪感も大いにあった。自分は何も与えてやらない癖に、娘が自分で築いた誰かとの関係まで奪うのは、あんまりだと思った。けどまぁ…結果的には、それでよかったんだな」  父はふっと口元に微かな笑みを浮かべた。父が笑ったのを見たのは、何年振りだったろう。    「今日、会えて良かったよ。真面目に生きてるとたまにはいい事もあるもんだな。まぁ、何だ。婚姻届とか新居の購入の手続きで保証人が必要になるなら、遠慮なく言ってくれ。仕事柄、不動産購入の相談にも多少は乗れる」  呆れるほど情緒のない現実的な言葉で締め括ると、父は自分でお茶を淹れに席を立った。
/124ページ

最初のコメントを投稿しよう!