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私の家の最寄駅に近付いたのは、夕方に差し掛かったばかりの頃。西に傾き始めた太陽の光が、鋭く瞼を刺す。
そのまま帰ってもよかったのだけれど、どこか寄ってく?と、壱己に訊かれて途中下車した。なんとなくこのまま家に帰るのが惜しいような気がするのは、私だけではなかったのかもしれない。
最寄駅より三駅ほど手前の駅で降りて、少し歩く。十五分ほど歩くと、広い公園があるのだ。近くに公営のスポーツセンターや文化会館があるので、休日はそれなりに賑わう。
「その公園ね、もう少ししたらミモザがたくさん咲くの。綺麗だよ」
「どんな花だっけ」
「黄色い小さなふわふわの花。切花だとすぐ萎んじゃうしあんまり売ってないから、毎年ここに見に来てる」
「ふぅん。なら咲く頃にまた来るか」
花なんてさほど興味ないだろうに、壱己はそんな約束をする。細かい葉がみっしり繁った枝に鈴なりにつく花芽は、もうほんのりと黄色く染まっていた。
公園の中央には池を囲む広場があって、一月に一度、そこでマルシェが開催される。今日と明日がその開催日なのだ。普段スーパーでは手に入らないようなものが見つかるから、時々一人で見に来ていたのだ。
「結構色々あるんだな」
ぐるりと広場に軒を連ねるキッチンカーや出店。本格カレーや石窯ピザ、ジェラートや自家焙煎のコーヒーなど、それぞれのこだわりを感じさせる看板を、壱己はもの珍しそうにひとつひとつ見て回る。その中から壱己が選んだのは、ホットワインとラムの串焼きだった。
「絶対それ選ぶと思った」
「お前は何買ったの?」
「四種のハーブのドレッシングと薬膳カレースパイスキット」
「好きだよな、そういうの…」
食べられない食材はさほど無いものの王道の味付けを好む壱己には、私の食の好みはいまいち共感出来ないらしい。でも一緒に家で食事をするのであれば、今後は道連れだ。
「コーヒーとワッフルも買ったよ。あっちのベンチに座って食べよ」
賑やかな中心部から離れて、私たちは隅っこのベンチに座る。木陰は少し肌寒いけれど、静かで人通りも少なくて、過ごしやすかった。
並んで公園のベンチに座っていると、昔に戻ったみたいだった。まだ知り合って間もない頃、秘密基地みたいな寂れた公園で、こうやって一緒に時間を潰していた。
「ミフネ君、見つかるかなぁ」
羽をばたつかせながら池の縁と木々を行き来する鳥を見るともなく眺め、私はぽつりと呟いた。『母とミフネ君』という言い方を、無意識に避けていた。
母の手帳は、電車の中で壱己と一緒に見た。いくつかの予定は記入されていたけれど、それは全て仕事の用事や私の学校関係の行事だった。
考えてみれば当たり前だ。当時は日常的に使っていたのだろうし、家族の目に触れるかもしれないものに、秘密の予定なんて書き込む筈がない。誰に見られても構わない物だからこそ、家を出る時にも置いていったんだろう。
手掛かりなんてものは欠片もなさそうなその内容に、私は落胆するような安心したような、奇妙な気持ちになった。
「…あのさ、灯里」
壱己は私と同じように、名も知らぬ鳥を目で追いながら、低い声で呟く。
少し迷うように俯いた後、ポケットから財布を出して、その中から一枚の紙切れを引き抜いた。
黙って差し出されたそれを見ると、縁のない地方の住所と知らない電話番号が書かれていた。知らない。知らないけれど、でも、多分これは──
「お前の母親の住所と連絡先。親父さんに聞いた」
「お父さん、知ってたの…⁈」
愕然とする私に、壱己は複雑な表情で頷いた。
「…でも、そこにお前の母親がいたとしても、多分ミフネはもういない」
「どういうこと…?」
壱己の言葉に私は眉を寄せた。
私が席を外した短い時間で、壱己は父から、一体何を聞いたんだろう。
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