夫婦連結法

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夫は海釣りの最中、海に転落したと言う。釣り仲間がその瞬間を目撃していたから間違いないと。携帯を誤って海に落としてしまい、それを拾おうとしたところで足を滑らせ、溺れてしまった。 すでに寒くなり始めた時期で、誠は泳ぎも苦手だった。すぐにその体は沈んでしまい、周りにいた人たちもなす術がなかったという。 葬式を終えた巴は、自宅でぼんやりと過ごしていた。何もやる気が起きなかった。別れを考えていたとはいえ、夫が突然いなくなった寂しさは埋めようのないものだった。 自分のせいだろうか、と巴は考える。あんな言い方をしてしまったせいで、夫の集中力が乱れてしまい、それで事故が発生してしまったのではないのかと。 インターホンが鳴った。巴は最初、それを無視しようとした。一人になりたかった。誰かの慰めを、いまは必要としていなかった。 それでもインターホンは鳴り続け、やがてドアが直接ノックされるようになった。そして聞こえてきた声。 「巴さん、いらっしゃいますか?わたし、誠さんの会社に勤めておりますカウンセラーの浅倉と申します。ご在宅でしたら開けてもらえますか?」 会社のカウンセラー? 巴はとりあえず玄関のドアを開けることにした。穏やかそうな顔をした女性がそこに立っている。 一応名刺を確認すると、カウンセラーというのは事実のようだった。巴はその女性をリビングに招き入れることにした。 「それで、今日はどんなご用で。おそらく夫のこと、ですよね」 「はい。誠さんはしばらく前から当社のカウンセラールームを利用されていたのですが、そのことは聞いたことはありますか?」 「いえ。最近ではあまり話すこともなくなったので」 「そうですか。ではもうひとつ聞かせてください。誠さんの死は事故として処理されたと聞きましたが、それは間違いありませんか?」 「ええ。その瞬間を目撃した人もいますので」 「このようなことを聞くのは失礼かもしれませんが、その事故、自殺の可能性を疑ったことはありませんか」 「え、自殺?」 「はい。誠さんは大きな悩みを抱えていましたので、それが原因かもしれないと考えまして」 「悩みというのは?」 浅倉は少し間を置き、言った。 「誠さんは認知症ではないかと」 「え、認知症?まだ三十になったばかりですよ」 「若年性の認知症はそれほど珍しくはありません。カウンセラー室を訪れた誠さんは最近、物忘れが激しくて困っていると言っていました。しばらく様子を見ても改善する様子はなかったので、わたしは病院に行くように進言したんです」 巴はすぐには信じることは出来なかった。夫からそのような悩みを相談されたことはなかったからだ。 「誠さんは離婚を考えていると言っていました。もし認知症であるのなら、妻に迷惑がかかってしまうと。ですが、離婚をすれば妻の年金は下がってしまう。そこで誠さんは自殺をしたのではないでしょうか」 「……年金」 「連結法は離婚に大きなペナルティを与えるもの。しかし、死別はその限りではない。配偶者に罪がないなら、一定期間の内に再婚すれば、結婚期間は引き継がれます」 「夫は、わたしの年金のために自殺をしたというんですか?」 「おそらく。奥様、あなたは不倫をされてますね」 巴は言葉に詰まった。夫がそこまで話していたとは思わなかった。 「それが今回の誠さんの決断に繋がったのかもしれません。離婚後、すぐに相手が見つかるのなら年金の心配はなくなりますからね」 「でもわたしは、なにも聞いてなくて」 「言えなかったのでしょう。連結法がある以上、離婚は簡単ではない。しかし認知症は仕事に影響を与え、会社の対応によっては生活が苦しくなる場合もある。今後どうするべきか、誠さんは散々悩んだのだと思います」 巴はこれまでの誠の態度を頭に思い浮かべる。 ある日から、突然よそよそしくなった夫。会話をなるべく避けるようにし、些細なことでも怒るようになった。 それも全て、認知症の影響? もしくは、認知症であると知られたくないからこその態度? 「奥様、わたしはあなたの行動を責めにきたのではありません。ただ、誤解をといておきたかったのです。夫婦の間に亀裂が生じていたことは聞いています。しかしそれはあくまでも誠さんの病からくるもので、本人にもどうしようもないことだったんです。誠さんはあくまでもあなたのことを愛していました。わたしはあなたに、それを知ってもらいたかったんです」 浅倉はそう言って椅子から立ち上がった。 「自殺かどうか、本人以外には正確なところはわかりません。ただわたしは誠さんと何度も話し、カウンセラーとして彼の気持ちをだいぶ理解できたと思っています。奥さんを心から愛していたあの人なら、このような決断をしても不思議ではない、そのようにわたしは思うのです」 「夫は、わたしのことを何と言ってたんですか?」 「野良猫に毎日餌を上げる、優しい人だと」 それは大学生のときのことだ。実家に住んでいた巴は夜中に現れる野良猫に毎日餌をやっていた。そんなところが好きだと誠も確かに言っていた。 「認知症は最近のことは忘れますが、昔の記憶はあまり消えません。まだそこまでひどくはなっていなかったとはいえ、会うたびにそのことを言っていました。これだけは忘れてはいけないものだからと」 それでは、と言い残して浅倉はひとり、部屋を出ていった。
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