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エブリスタウンの居酒屋
通りに面した銭湯や魚屋、その向かいにある路地を入った所にある居酒屋。おもちゃ屋と弁当屋の間を抜けて見える事のできる隠れ家的な場所。
年季の入った建物は夕暮れになると明りが点く。暖簾が出てきたら入って下さいの合図、そう居酒屋である。居酒屋とは言っているのだが、町の人達はこの店の事を"居酒屋"としか知らない。
普通なら暖簾に店の名前くらい書かれたっていいかもしれない。なのにこの店は暖簾に"居酒屋"としか書かれていないのだから居酒屋としか言いようが無い。エブリスタウンに居酒屋はここだけ、だから"居酒屋"と言われればこの店で間違う事もないし名前なんて決める方が野暮のように感じてしまう。
夕暮れが来たら、気まぐれに店は始まる。やや年季の入った木造平屋に反して、暖簾と電光看板を出すために引き戸を開けた店主は小綺麗な身なり。
バーテンダーが来ていそうな黒いベストに腰掛けエプロンをして、口ひげを蓄えた中年の男性。"春夏冬"と書かれた電光看板を一瞥、背伸びをして涼しい空気で肺を満たし一気に吐き出すと、彼はまた店に入っていった。
*
「いらっしゃいませ」
外見のイメージとか裏腹に、落ち着いたトーンで迎えられる。元気な一声を無意識に期待していたサラリーマン風の男はカウンター席しかない店内の、カウンターの向こうに立っている中年の男に予想を裏切られた。とりあえず古そうな感じにしておけば客が来るだろうという店主の策略にまんまと引っ掛かった客の男だが、カウンターに座るなり「とりあえず生中だ!」とお通しよりも先に注文を通す。
「うちの店にビールはございません」
「え?居酒屋じゃないのかい!?」
「当店は紛れもなく居酒屋でございます」
ビールが無い事に面くらってしまった客の男。一仕事した後のビールが美味いんだろ、と思い至高のジョッキ一杯を求めてやってきたというのに入った時から予想外の事が連発して混乱してしまう。
「お品書きをご覧下さい」
「あ、ああ…」
品書きを見ると、酒類は葡萄サワーにカシスウーロン、そしてワインの3種(ワインは赤白で何たらかんたら書かれているが通じゃない彼には分からない)。ソフトドリンクは葡萄ジュース、グレープソーダ、烏龍茶、お冷の4種。料理は色々とあるみたいだが、飲み物の振れ幅が訳の分からない方向に傾き過ぎて頭に入って来なかった。
この時に料理にもスポットを、と言いたいところだが物語的には野暮である。
「果汁多めとなっております」
「えらく落ち着いたラインナップだぜ」
「酔いに溺れては、折角の味を忘れてしまいます。お客様には葡萄の上品な味わいと食事を楽しむという"物語"を楽しんでもらいたいのですよ」
「物語、なあ…」
左手で頬杖をつきながら、客の男は店主の言葉を飲み込む。右手の人差し指でトントンとカウンターを叩く間、照明の光が左手の薬指にはめられたプラチナの指輪に反射した。
「まあいいや、葡萄サワーをくれ。あとホッケの塩焼きも」
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
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