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其は、誘惑
危険な獣だけでなく、嘘か誠か人を惑わし魂を喰らう魔物が徘徊しているなどという噂まであり、自殺志願者でもなければまず近寄らない、鬱蒼とした森の奥。ひっそりと佇む小さな家に、一人の魔女が住んでいた。
満月を厚い雲が覆い隠し、土砂降りの雨が窓を叩く。遠雷の音は徐々に近付き、遂に一筋の稲妻が、魔女の住処へと──
『……おや、随分と久々に召喚び出されたかと思えば……召喚者は、貴女でしたか』
──確かに直撃したはずの落雷など、はじめから無かったかのように──静かに佇む家の中では、幾重にも描かれた魔法陣の上に一人の悪魔が立っていた。
悪魔の名は、アルプ。闇夜のような漆黒の髪に、血のような紅い瞳。旧い様式の神官服によく似た──そして肝心要の聖なる紋章が逆さに描かれた服を纏っており、整った顔にはどこか人を惹き付ける妖しい笑みが浮かんでいた。
『貴女が魔女になったことは存じ上げていましたが、他人と契約中の悪魔を態々喚び出すとは……あのとき、契約の対価に母君の魂を頂いたことを恨んでいらっしゃるのですか?』
アルプを召喚した魔女──アデリータの母は、当人も与り知らぬ魔女としての稀有な才能を持っていた。そのため当時最も力を持っていた宗教が主導していた魔女狩りによって捕らえられたのだが、処刑される直前、自身の魂を対価に、娘──つまりアデリータを護るよう、アルプと契約を結んだのだった。
しかしそれも、国の名すら変わる程昔のこと。今では魔女という者は実在していたことすら忘れられ、悪魔や天使と共に御伽噺に出てくるような迷信の類とされていた。
「いいえ。……魂を差し出したのはお母様自身の意思で、私はその契約に護られ生き延びた。お母様と貴方に感謝こそすれ、恨むなどと……それは逆恨みというものでしょう」
その答えに、ふむ、とアルプは首を傾げた。
『では何故私をお召喚びに?……ご存知かとは思いますが、一人の悪魔が契約を交わせる人間は一度に一人。契約者が最早この世にいない以上、解除することすら不可能です。貴女の母君と交わした契約は、私からのものを含めあらゆる悪意から貴女を護るというもの……その契約はまだ生きています。つまり貴女が不慮の事故か病か、あるいは寿命で亡くなるまで私は他の人間とは……勿論貴女とも契約を結ぶことはできない、ということです。……しかし貴女が魔女となってしまった以上、それもいつになることやら』
小さく肩を竦めたアルプに、アデリータは薄く笑みを浮かべた。
「ええ、だから私が望むのは貴方との契約ではないわ。……生き残るために魔女になったはいいけれど、魔女の寿命は長すぎて、退屈で仕方ないの。貴方も平和な契約が続いて退屈でしょう?私と賭けをしない?」
『……賭け……ですか?』
アデリータは簡素な椅子を引いてアルプに座るよう促すと、自分は薬の調合や魔術具の製作に使っている机に腰掛けた。
「ええ。長いゲームになるかもしれないけれど、お互い時間なら幾らでもあるのだし構わないでしょう?」
『そうですね、時間がかかる事に関しては構いませんよ』
アルプの瞳に、面白がるような光が浮かぶ。
『それで?……どんな面白い賭けを提案して頂けるのでしょうか?』
「簡単よ」
アデリータの紅い唇に刻まれていた笑みが深くなる。
「これから貴方と私で『恋人ごっこ』をするの。……貴方が私を心から愛することができたなら、私の魂を好きにしていいわ。『悪意』ではないのだから、お母様との契約に反することもないはずよ。どうかしら?」
アデリータの提案に、アルプは一瞬呆気に取られたような顔をして。
『フ……フフフフ、『私が』『貴女を』、なのですね?確かに面白い賭けだ……ですが何故、そのような益体もない娯楽に魂を賭けられるのです?極端な話ではありますが……貴女程の魔女ならば、魔術で悪魔でも人間でも服従させて、『恋人ごっこ』でも何でも退屈凌ぎを演らせることができるでしょう?』
「……貴方が、惚れた相手の魂を得たときにそれをどうするのか……純粋な好奇心よ。食する事で永遠に共に在ろうとするのか、宝物のように飾っておくのか、あるいは服従させて死ぬまで共に時を過ごすのか……ああ、だから私の魂を肉体から引き剥がす前に魂をどうするつもりなのかだけは教えてちょうだいね?」
『……『悪魔が』ではなく『私が』ですか?それは……貴女が私に対して何かしらの特別な感情、端的に言えば好意を抱いている、と解釈しても?念の為に申し上げておきますが、私が貴女を助けたのはそれが貴女の母君との契約だったからであって、貴女に対して何らの特別な感情を抱いているわけではありませんよ?』
「そうね、頭では分かっているわ。だけど、人間は愚かな生き物よ。……貴方なら、よくご存知でしょう?」
成程、とアルプは頷いて。
『いいでしょう、退屈していたのは事実ですし特に断る理由もありませんから、ね。……それで?支払いは誰がどう担保して下さるのですか?』
アルプの言葉に、アデリータは一枚の羊皮紙を差し出した。
「どうぞ。……術は貴方の同意を以て発効しているから、貴方が持っていてちょうだい」
『『汝が我を心より愛せし時、以て我が魂を汝へと譲渡する』?』
成程、と笑ったアルプは椅子から腰を上げ、唇をアデリータの耳許に寄せて。
『いいでしょう。……私が貴女を愛するその時まで、この世のどんな砂糖菓子より甘い夢を見せて差し上げると約束致しますよ』
と、──当に砂糖菓子のような甘い声で、そう囁いたのだった。
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