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「仔空起きなさい。旦那様と奥様がお呼びよ」
「ん……え?どうして旦那様が……」
「いいから早く来なさい」
玪玪に叩き起こされて、慌てて着替えると旦那様の居る部屋へと向かう。どうして呼ばれたのかも分からないまま、不安感が胸を過った。
「あ、あの……静龍様は?」
「静龍様は皇帝陛下からの命で宮廷に向かわれたわ」
「……そうなんだね」
静龍様が居ないときに、旦那様と奥様に呼び出されるなんて変だ。ますます嫌な予感がしてくるけれど、逃げ出すことも出来ず、部屋へと着いてしまった。
「仔空を連れてまいりました」
玪玪と共にお辞儀をし、その場に頭を垂れる。顔を上げるように言われ、目線を上へと向ければ、旦那様と奥様が厳しい顔をしていることに気がついた。
なぜか、奥様の隣には燈蕾様も居て、柔和の笑みを浮かべている。その笑みがどうしてだか恐ろしいと感じてしまった。
「この使用人が、昨夜静龍をかどわかし事に及んだというのは誠か?」
「はい。私がこの目ではっきりと確認致しました」
旦那様から問に、玪玪が答える。さっと顔から血の気が引き、頭の中が真っ白になった。いつか、ばれてしまうと覚悟していた。けれど、まさか玪玪が告げ口するなど思ってもいなかった。
「ぼ、僕は……」
「なんと卑しいやつだ。この家の財産欲しさに静龍に近づいたか?身分の低い使用人が、よくも大それたことを!」
「違います!僕は静龍様のことを本気で……」
「黙らないか!!この者を跪かせよ!」
旦那様の剣幕に押されて、口篭る。近くに控えていた使用人に無理矢理跪かされた。鞭を手に持った旦那様が、仕置を与えてから屋敷から追い出すと叫び、奥様もそれに同意する。
慌てて弁解しようと藻掻くけれど、押さえつけられて言葉すら発せられない。その様子を静かに見ていた燈蕾様が、突然立ち上がり旦那様の隣へと立つ。
「落ち着かれてください。屋敷を追い出すだけでは、また静龍様に近づいて来るやも知れません。ですから、燈蕾にいい案があります」
「むぅ、聞かせてみよ」
鞭を下ろした旦那様に、燈蕾様が微笑みを返す。なにを考えているのか読めない人だと思った。
ゆったりとした動作で僕の前へと歩み寄ってきた燈蕾様が、目の前に屈み顎を掴んでくる。白く細い指に力が込められ、微かに痛みを感じた。
「丁度、宮廷は使用人不足で困っているとか。使用人を寄越すようにお触れが出されたのはご存知でしょう。ですから、この者を宮廷へ遣わし静龍様に近づけぬようにしてしまうのです。宮廷に入れば任期が明けるまでは出て来れません」
「たしかにいい考えですわ。旦那様、そう致しましょう」
燈蕾様の考えに賛同するように、奥様も笑みを浮かべる。旦那様はしばらく沈黙し、考えを巡らせていたが、最終的には燈蕾様の案に賛同の意を示した。
「しっかりとお勤めをしてくるといい」
「っ、そんな!僕は……旦那様!奥様!屋敷から出ていきたくありません!お願いです!!どうかっ!」
使用人達を振り払い、何度も額を床にあててお願いする。もう、静龍様と触れ合いたいなんて望まい。ただ、お傍で見つめているだけで満足する。だから、どうか僕を屋敷に居させて欲しい。
高望みした自分が悪いとわかっている。それでも、僕は愛する人の傍を離れることが嫌だった。
「黙らないか!!」
「っ!」
鞭で背を打たれて呻き声を上げてしまう。
玪玪の方を見れば、目を逸らされてしまい、誰も僕を助けてくれる人は居ない。痛みに涙を流しながら、何度も屋敷において欲しいと願いを口に出す。その度に鞭が降り注ぎ、汗と涙が飛び散った。
「可哀想に。あの方の傍にいたいのなら、高貴な身分に産まれ直さなくては。ふふ、でもそんなこと無理でしょうけれど」
僕の耳元でそっと燈蕾様が囁く。その言葉を聞いて、一気に身体から力が抜けてしまった。
燈蕾様の余裕の笑みを見返しながら、ようやく本当の意味で思い知った。僕と燈蕾様は同じ芳者だ。けれど、身分の差はどうやっても埋まらない。僕は国で一番低い身分の産まれで、燈蕾様は高貴な身分の方。彼の言うとおり、静龍様と結ばれるには産まれ直すしか方法がないような気がする。
「っ、うう」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。旦那様の命令で使用人達に部屋から引き摺り出されると、怪我の手当もされないまま、早急に屋敷の外へと出された。荷物すら持っていく時間もない。
宮廷に続く大門まで連れて来られると、使用人の一人が衛兵へと僕のことを引き渡す。衛兵の手には、使用人から渡された金銭が握られていた。
なにも分からないまま中へと通されると、女官の女性へと引き渡されてまた何処かへと連れていかれた。着替えるように言われ、渡された鼠色のみすぼらしい衣装に身を包む。
門をいくつも潜り、辿り着いたのは奴婢の身分の下女や下男が働く場所だった。肥溜めの掃除や、洗濯、洗い物など、仕事は多岐に渡るのだと説明される。
黎家に居た頃と仕事の内容は大して変わらないけれど、働く人達の様子から見て、あまりいい環境とは言えない気がした。
(静龍様……)
背中がかなり痛む。酷い悪臭の中を進み、指示をされた仕事をし始めた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
昨夜はあんなにも幸福に包まれていたはずなのに、今は真逆だ。まるで悪い夢でも見ているような感覚。静龍様に助けてもらう以前の生活よりはマシだと思えば耐えられないことはない。けれど、なによりも心を抉るのは、愛する人に一生会えないかもしれないという悲しさだった。
昔には戻れない。あの優しさや熱の篭った眼差しを忘れることなど無理だ。また涙が頬を濡らす。手を動かしながら、人目も顧みず泣き続けた。
燈蕾様の言葉が何度も浮かんでくる。
「静龍様……」
静龍様と過ごした時間こそが夢だったのだ……。
そう思えてならない。
会いたい……。助けてなんて言わない。せめて声だけでも聞くことが出来たなら、お別れくらいはできたのだろうか……。
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