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差し出された手を思わず掴んでしまったのは、目の前のこの人の優しさと哀れみを含んだ瞳に惹き付けられたからだった。
蝗害による不作の影響で飢饉が起き、農耕で日々を食いつないでいた村の人達は飢えに苦しんでいた。僕や家族も例外ではない。見る影もなくやせ衰えた両親は、涙を流しながら金銭のために僕を奴隷商人へと売り渡した。手に入るお金は雀の涙。それでも、ないよりはましだ。
「ほら!笑わねーか!」
後頭部を手ではたかれて、無理矢理歪な笑みを浮かべる。奴隷商人も常に生きるか死ぬかの瀬戸際だ。そのため、名家に高値で奴隷を売りつけようと毎日躍起になっている。人の行き交う繁華街の隅で、手に縄を巻かれて立たされる。使用人として買われれば運がいいけれど、憂さ晴らしに奴隷を痛ぶる人間もいる。僕達奴隷の命はとても軽い。この世は身分がすべてを決めるから。
「そこの旦那!上物の奴隷を仕入れたんだ。買ってくんねーかい!」
丁度目の前を通り過ぎて行こうとした男性に、奴隷商人が声をかける。立ち止まった男性は、学のない僕でも一目で分かるほどに豪華な華服に身を包み、豊かな黒髪を冠と簪で結留めている。切れ長の夜を思わせる瞳に少し強面の顔はやけに整っているように思う。
「奴隷商人か」
「へい。見てくだせえ!最近入った若い奴隷でさ。性別はわからねえが、使い道はあると思いますぜ」
男性は僕のことを数秒見つめたあと、懐から銀貨を数枚取り出して奴隷商人へ手渡した。へへへっと下衆な笑みを零しながら、男性へと僕を引き渡す。
「おいで」
差し出された大きくてゴツゴツとした手と、男性の顔を交互に見比べてから、そっと手を掴む。慈愛と哀愁に満ち、優しげに細められた瞳を見て、この人は自分に危害を加える人ではないと、直感的に思った。
奴隷商人からかなり離れた場所まで連れてこられると、手を離される。少しだけ不安になった。与えられていた温もりが去っていく感覚が怖いと思ったからだ。
「これでお前は自由だ。何処へでも好きに行くといい」
思わず小さく首を横に振る。行く場所なんてない。僕みたいに若くてなにも持たない人間は、また奴隷商人に捕まるか、飢え死にするかのどちらかしかない。両親の元には戻れないし、生きていく術も持たない。
「……行く場所なんてない」
華服の裾を掴もうと手を伸ばしかけて、止める。自分の身体は泥や煤で酷く汚れていて、触れてしまったら、美しい彼を汚してしまいそうで戸惑われた。
けれど、このまま置いてけぼりにされてしまえば、確実に
死んでしまうだろう。一週間持てばいい方かもしれない。骨と皮だけの僕の腕とは対照的な、太くしなやかな筋肉の着いた腕が持ち上げられる。殴られるかもしれないと思い、反射的に瞳を閉じれば、頭に手のひらが乗せられた感覚がして恐る恐る目を開けた。
「なら、一緒に来るといい。使用人として雇ってやろう」
「いいの?」
「買うと決めたのは俺だからな。俺の名は静龍だ。さあ、行こう」
戸惑うことなく汚れた僕の手を掴んだ静龍が歩きだす。僕の歩幅に合わせて、世界がゆっくりと動き出した。この人の立場も、肩書きも、なにも分からない。けれど、どうしてだか安心出来る。不思議な感覚だ。繋がれた手から感じる温もりが心地いい。
「あ、あの……ありがとう……」
「気にするな」
笑みを向けられて、ドキリと鼓動が跳ねた。広くて大きな背を見つめながら、高鳴る鼓動を片手で抑える。期待と不安が胸を覆っていく。
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