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早朝、食事を届けるために静龍様の元に訪れる。気がついて顔を上げた静龍様が微笑みかけてくれた。善を並べ終え、部屋を出ようとすると手招きをされる。近づくと、紙に書かれた文字を見せられた。
「字は読めるか?」
「読めません……。ごめんなさい」
「謝ることなどない。学びたいなら教えてやろう」
手を取られて、筆へと沿わせられる。重ねられた静龍様の手と僕の手が同時に動き、文字が形造られていく。不思議な感覚だ。自身で書いているのに、目の前に広がる文字がなんと書かれているのかを僕はわからない。
「なんと読むのですか?」
「静、龍。俺の名だ」
「これが……」
美しくも堂々たる名だと思った。この名に込められた意味は読み解くことができないけれど、彼にぴったりの名だと感じる。
「仔空が初めて覚える字は俺の名がいい」
夜色の瞳に真っ直ぐと見つめられて、鼓動が走り出す。静龍様に見つめられていると、酷く心がざわつくんだ。けれど、決して嫌なものではない。
「覚えます」
返事を聞いた静龍様が嬉しそうに目尻へと皺を寄せた。応えるように笑い返し、空いている紙へと筆を走らせてみる。上手く一角目が書けず、へにょりと曲がった横棒が描かれた。
困り顔を向ければ、また大きな手が重ねられる。
時を刻むかのように、ゆっくりと墨が紙上を滑っていく。鼓動が合わせるように鳴り響いていた。
至近距離のせいか、絹の擦れる音や微かに感じるお香の匂いすらもわかってしまう。段々と集中できなくなっていき、落ち着かない。様子に気がついた静龍様の指が頬を微かに撫でた。
「顔が赤くなっているな」
「あ、その……」
「ん?」
傾げられた顔が僕の表情の変化一つ見逃さないというように覗き込んでくる。ともすれば、唇が触れてもおかしくない距離。だめだとわかっていても、静龍様の姿を目に焼き付けてしまう。戯れでもいい。この一瞬、彼の瞳の中に僕の姿が映し出されていることが嬉しいと思う。この感情の名はまだわからない。
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