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「■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
雨が上がり、月が見える妾宅の庭で、全身を震わせながら近藤は吼えた。
自身に降りかかる理不尽に、天に唾を吐くかのように、太い喉を反らせて咆哮した。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
腰が痺れるように痛み、頭も痛くなり、吐き気もこみ上げてくる。
だが不調を凌駕する怒りが、血のように全身を駆け巡って奮い立たせるのだ。
訳の分からない霊木の御利益なんて、最初から自分には必要なかった。
◆
数日後。
「近藤さん、なんだこれ?」
意気揚々として、脇に木板を抱えて屯所に帰る近藤を、副長の土方歳三が呼び止める。
「あぁ、歳か。近々戦になりそうだからな。先んじて、手を打とうと思ったのだ。急務の際に、いちいち馬から降りるなんて考えられん」
そう言って土方に見せるのは、金泥で書かれた扁額だった。
扁額には【藤森神社】と書かれており、近藤の行動に合点がいった土方は、役者顔負けの顔立ちを緩ませる。
「最近、どこに行っているのかと思ったら、そういうことか」
土方はふっと笑った。
悪い笑みだった。
「あぁ、だが応じてくれなかったから、実力行使に出た。神主の顔が見ものだったよ。天罰が落ちるとな」
得意げに話す近藤は、見せつけるように扁額を地面に落とし、ぐりぐりと踏みつける。
どうだ! 俺に天罰でも下して見せろ!
最初は穏便に済まそうと思っていたのだ。
黴の生えた因習で人々を縛り、交通を妨げる方が明らかな悪。
腰痛平癒の祈願に来た名目で、神主に何度も、扁額を取り外すよう交渉を重ねた。扁額のせいで、人々が不便にしていることを理由に、真心と言葉と金を尽くしてきたのだが、最期に物を言ったのは暴力だ。
西本願寺を占拠して、屯所の一部にしたことも踏まえれば、近藤も土方も神仏に対して敬う気持ちなんてない。
今回のことで、幕臣になる踏ん切りがついた。
尊王には一定の理解を示すが、自分たちの道を阻むのならば排除するのみだ。
【うっ……あ、ま、か……み】
不意に、刺客の男が発した言葉が、脳裏に蘇る。
【勇様は、こんな人じゃなかった。まるで悪い何かに憑りつかれたようで、見ていて心苦しかった】
続いて聞こえてくるのは、深雪太夫の切実に満ちた声だ。
近藤は頭を振って幻聴を払おうとするが、頭の奥底に不吉な余韻が響き、ずきずきと腰が痛み始めてきた。
暗闇の中で嘗ての愛しい人が、血の涙を流している幻影すらも見えきて、痛みとは別の怖気がぞくりと身体を撫でてくる。
「どうした、近藤さん? 顔色が悪いぞ」
「そうか。俺はこんなに、爽快な気分なんだがなっ!」
ハハハハハハハハ……。
ぐっと近藤は、扁額を踏みつける足に力を籠め、大口を開けて笑う。
近藤は知らない。
自分の行いを天が見ていることを。
怒りと屈辱に打ち震える日々が、最悪の形で幕を閉じることを
◆
慶応三年 十二月
御陵衛士の残党に狙撃され、右肩に傷を負った近藤勇は、後遺症の影響により前線で戦うことが叶わなくなった。
狙撃された場所は、特定されていないが、藤森神社付近だとされている。
その後、敗走を重ねた末に、翌年の四月に板橋で斬首。
土方歳三が新選組局長となり、新選組は北の果てへと追い詰められることになる。
余談であるが戊辰戦争時、徳川幕府の開祖である徳川家康を祀った日光東照宮を、焼き討ちにする計画が新政府軍に持ち上がった。
今まで自分たちが被った理不尽と無念を晴らそうと、怒りに燃えてふるい立つ兵士たち。
彼らに対して、土佐藩士の板垣退助の言葉が、兵士たちを正気に戻し、正道へと立ち返らせた。
板垣は言った。東照宮には後水尾天皇が御宸筆した扁額が掲げられている。と。
【了】
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