まかみ

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 慶応(けいおう)三年  その日は小雨(こさめ)がちらつき、まとわりつくような湿気(しっけ)が漂う肌寒い午後だった。人目(ひとめ)をしのぶように藤森神社(ふじもりじんじゃ)に現われた【その男】に、周囲の人々は息を呑み、道を開け、その背中を見送った。  男がどこの誰なのかは分からない。  だが、ざわめく人々の本能が、その男の危険性を告げていた。  大人の(こぶし)が、丸々と入りそうな大きな口。だが、痛みをこらえるように、歯を食いしばっているせいなのか、男の大口が、狼のごとく耳まで裂けて見える。  瀟洒(しょうしゃ)な着物では隠し切れない血の匂いと、怒気(どき)を炎のように全身に(まと)う様は、さながら現世(げんせ)へ迷い込んだ悪鬼(あっき)そのもの。  関わるだけ死を彷彿(ほうふつ)とさせるその男に、参拝客は気圧(けお)され、圧倒(あっとう)され、恐怖で全身を震わせる。  男の身なりから、相当の地位を伺わせるものの、腰に刀を差さず、(とも)をつけず、傘も差さずに参道を歩く姿は、どこか手負いの獣を思わせて痛々しく哀れだ。  男は神社本殿を通り過ぎて、旗塚(はたづか)へと向かった。 ――腰痛平癒(ようつうへいゆ)。  そこにあるのは京人(きょうひと)ならば知る人ぞ知る、腰痛を治癒する霊験あらたかな【いちいの木】があり【いちのきさん】と呼ばれ、親しまれている霊木でが(まち)られいる。  男の目的は、本当に腰痛の治療なのか?  人々は男の目的が、自分たちの想像する範疇外(はんちゅうがい)であることを肌で感じていた。  なぜなら男が【いちのきさん】へと続く、土台を含めた七段の石階段を上るたびに、空気が軋んで震えているように見えたからだ。  パンッ、パンッ!  男は作法に(のっと)って、二礼二拍手一拝(にれいにはくしゅいちれい)で、しめ縄を巻いた巨大な切り株を拝み、悔し気に歯ぎしりをする。 ――この男の名は近藤勇(こんどういさみ)。  泣く子も黙る、新選組の局長である。  
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