聞こえない

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聞こえない

 私が異変に気づいたのは、やっとのことでベッドを出て、テレビを付けた時のことだった。  最初はテレビが壊れたのかと思った。  音量ボタンをいくら上げても、その男性アナウンサーが何を言っているのか、まったく聞き取れなかった。  音としては聞こえるのだけれど、それはノイズのようで、耳障りなだけだった。 『こんにちは!今日のお天気です』  テレビの不調を疑っていた私は、突如として耳に入ってきた女の声に戸惑った。 『今日は各地で晴れの予報で、絶好のお花見日和になりそうです』  その気象予報士は、澱みなく天気の予報を伝えた。  そして、画面が再び先ほどのアナウンサーに戻る。  彼は、1秒ほど待って口を開いた。 『〜〜〜』  ひと言も聞き取れない。  テレビのチャンネルを変えてみた。  そのチャンネルでは、見たことのある男性アイドルが、幸せそうにパフェを頬張っている。  頷くようにして飲みこんだ後、何やら食レポを述べているようだけど、やっぱり何を言っているのか分からない。  ワイプに映る女芸人が、『わー、いいなぁ』とか『美味しそう』とか羨ましがる声だけが、耳に入ってくる。  他のチャンネルでも同じだった。  時事ネタについて男たちが論争を繰り広げているのも、フリップを指し棒で叩きながら男が捲し立てているのも、膝のサポーターを売りつけようとするセールスマンの声も、何ひとつ聞き取れない。  効果音や女の声は普通に聞こえるのに、男の話し声だけが、まるで歪んでしまったかのように、言葉として認識できない。  経験したことのない異常事態に、私はやっと冷静になった。  昨日の夜の出来事を、いつまでも思い返している場合ではなかった。
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