13人が本棚に入れています
本棚に追加
終章
学校から帰宅すると、制服からパーカーとジーンズに着替え、その上に継実のお下がりの冬物コートを羽織った。荷物をまとめ、外に出る。
今日は十一月二十九日。金曜日。本当は二日前の新月がよかったのだろうけど、さすがに平日のど真ん中ということもあって、相談の末に日程をずらした。用を済ませたらそのまま継実のアパートに転がり込む予定だった。
外はめちゃくちゃ寒かった。そろそろ十二月に突入するのだから当然だ。雪は降っていないが、気温は低く、吐く息が白い。視界は良好。雲もない。
電車とバスを乗り継いで目的地へと向かう。約一時間かけ、数か月ぶりに例のトンネルの前にたどり着いた。私がちょんぎったフェンスの有刺鉄線はそのままになっていた。
フェンスの鍵は開いており、手で押すと、きぃ、と音を立てながら開いた。スマホのライトで照らしつつトンネルの中へと入っていく。コウモリ撃退の実験は終了したのか、ラジオの音は聞こえない。
トンネルを抜け、緩い山道を歩いた。ぬかるんだ地面を茶色の葉っぱが覆い、足を踏み出すたびに、柔らかな感触と乾いた葉っぱの感触が同時に伝わってくる。葉を失った木々は夏に見たときよりも貧相に見えた。
目的地の展望台で、既にコスモが待っていた。ダウンジャケットを着こみ、ネックウォーマーを装着して寒さ対策万全といった様子で、展望台のど真ん中に広げた椅子でくつろいでいる。私が彼に近づくと、彼の隣でお行儀よくお座りしていた柴犬がしっぽを振りながら駆け寄ってくる。
「ひさしぶり、イオ。お前は年中すっ裸で寒くないのかい」
私は膝を地面につけ、イオの頭を撫でた。
私がコスモと初めて出会ったのが夏休みの終わりのときだから、彼らと初めて会ったのは三か月も前のことだった。長かったような気もするし、短かったような気もする。
「お前から天体観測がしたいと言われる日が来るとはな。明日は槍でも降るのか?」
仏頂面のコスモが挨拶もなくそんなことを言う。相変わらず優しさの欠片もないが、不器用というだけで悪気があるわけではないということを、出会ってから今までの期間で理解していた。
「コスモ、さみしいかなって思って、来てあげたの。気を遣ったの。女子高生の方から来てもらえるなんて、コスモもうれしいでしょ?」
「そりゃどうも」
陽は既に落ち、頭上では星が瞬いている。以前ここを訪れたときから三か月も経っているので、夜空の様子も変わっているのだろうが、私にはオリオン座くらいしかわからない。私はコスモの横に腰を下ろして空を見上げた。
「お前の姉ちゃんはその後どうだ」
「うーん、それがよくわかんないんだよね。以前と変わらないように見えるけど、ちょっと違うっていうか……」
「なんだそれ」
「消化不良って感じ? 過去を受け止めるにはそれなりに時間がかかるんじゃないかな。まあ、でもたぶん大丈夫。今のところ、りっちゃんともぎくしゃくしてないし」
「そうか」
コスモも今日は特にテクニカルなことをするつもりもないようで、レーザー光で星を指して解説するわけでもなく、また望遠鏡で星を拡大することもなかった。ただ二人でぼんやりと空を眺めて過ごした。もう少し雰囲気が欲しいなと思った私はスマホで音楽アプリを起動させ、無音の空間におしゃれなジャズミュージックを流した。「観測に音楽は必要ない」とか面白くないことを言われるかなと思ったが、彼は何も言ってこなかった。
「調べたら、やっぱりそうだったぞ」
コスモが口を開いて、前振りもなくそんなことをつぶやいた。
「一九八九年の十月に石狩で観測された記録が残ってる。間違いない。低緯度オーロラだ」
低緯度オーロラ。
長年追いかけていた赤い光の正体がどうやらオカルトとはまるで無縁でありそうなことがわかり、私は少々落ち込んだ。
樋口から受け取った天文部の活動記録書のうち、一九八九年の冊子に異質な天体写真が挟まっていた。裏面に「カシオペアの丘」という記載があり、そのことからおそらくこれも石狩のカシオペアの丘で撮影したものだろうと想像できたが、一つだけ他の天体写真とは決定的に異なる点があった。まるであとからそういうふうに画像処理を施したかのように、空の色が真っ赤に染まっていたのだ。
初めてそれを目にしたとき、私ははしゃいだ。記憶の中にある「赤い光」の映像と重なる部分があったからだった。これは例の「赤い光」を写したものに違いない。
もっとも写真の裏面に「1989.10.24」という日付と撮影場所、父の名前の記載があるだけで、その他の情報は何もない。私はその写真を手かかりにして、長年謎とされていた「赤い光」の正体を探ることにした。
手始めに樋口に尋ねてみたが、彼は答えを持っていなかった。当時彼は天文部ではなく電気工作部だったらしく、父と交流はあったものの、この写真のことについて心当たりはないようだった。
後日その写真をコスモに見せたところ、彼は「低緯度オーロラの可能性がある」と即答した。
通常、オーロラは高緯度で見られる現象だが、コスモの話によると地磁気擾乱が激しく起きたときは日本でも観測されることがあるらしい。ただし日本で見られるオーロラは赤色。古くから「赤気」と呼ばれていて、通常はあり得ないその不気味な発光現象は災いの前兆とされたらしい。
祖母がどこまで迷信を信じていたのかはともかく、この低緯度オーロラをダシにして私たち姉妹を父の死から遠ざけていたのは明らかだろう。祖母に写真を見させられながら繰り返し赤い光の恐怖体験を聞かされているうちに、自分で実物を観測した気になっていた、というのがどうやら真実のようだった。
「オーロラかぁ、つまんないな」
「ばか言え。つまんないもんか。北海道付近では十年に一度くらいの頻度でしか観測されないんだぞ。俺も、俺のじいさんも拝んだことがないんだ。お前の親父がうらやましいぜ」
「要するに、ただの物理現象ってことでしょう?」
「解決したんだから、文句ないだろ」
確かに解決はした。これでもう過去にあれこれ思いを馳せて頭を悩ませることもないだろうし、心霊スポットを訪れる理由にいちいち過去を持ち出すこともなくなるだろう。うれしくもあったが、妙にさみしくもあった。いろんな感情がごちゃ混ぜになってわけがわからなくなり、私は笑った。一度笑うと止まらなくなって、私はしばらくお腹を抱えて笑った。それまで地面に伏せをしていたイオが笑い声に反応して立ち上がり、コスモは夜空から視線を逸らして私の方に怪訝な顔を向けた。
「私、決めた」
ひとしきり笑い終わったあと、私は言った。
「何を?」
「私もコスモやお姉ちゃんと同じ大学に入る。そんで天文部に入って、コスモの雪辱戦、手伝ってあげる」
「なんだ唐突に。そんな適当に進路を決めていいのか? 人生に関わるぞ」
「もともと志望校だし。それに、最初はただ贖罪の気持ちでやっていたけど、コスモの活動を手伝うの、ちょっと楽しかった。コスモやお姉ちゃん、そしてお母さんが夢中になるのもわかる気がする。私は宇宙に興味はないけれど、でも星空はちゃんときれいで、眺めるのも悪くない。宇宙を肌で感じて、人一人の人生の時間とは比べ物にならないくらい壮大なスケールを感じるのもなんだか好きだ」
「そうか」
「たぶん、好きになれるよ」
「そうか」
コスモはそっけなく返すと、再び上空に視線を戻した。
「もっとうれしそうにしたら?」
「合格してから言え」
「私、こう見えて成績は悪くないんだよ。お姉ちゃんほど真面目じゃないけど、要領いいし。合格祝いはタラバガニ食べ放題かな!」
最初のコメントを投稿しよう!