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第一章 囁きの片道トンネル
八月二十三日。よく晴れた日だった。
抱えていたダンボール箱を床に置くと、私は両手を天井に突き上げてうーんと伸びをした。長かった作業もこれでようやく終わった。久しぶりの重労働で全身が悲鳴を上げている。
これから姉の継実の住居となるアパートの部屋の中をぼんやりと眺めた。間取りは1K。ダンボール箱で埋め尽くされているせいで狭く感じるけれど、部屋の広さは十畳あり、独りで住むぶんには充分かと思われた。築一年未満のため新築の匂いがする。
掃き出し窓から夏の日差しが入射して、フローリングの床を猛烈に温めていた。風がほしいなと思って窓を開けると、遠くの方からセミのやかましい鳴き声が聞こえてくる。涼しくなるどころか熱気が入り込んできたので、すぐに窓を閉めた。
継実がレンタカーを返しに行っている間に、私は少しでも荷ほどきを進めておくことにした。表面にマジックで「参考書」と書かれたダンボール箱の前でしゃがみ、べりべりとガムテープを引っぺがして上蓋を広げた。
『トラウマが記憶を消してしまうとき』
『解離性健忘の心理療法』
『こうして私は記憶を失った』
そんな本のタイトルが目に飛び込んできて、私はとっさに上蓋を閉じた。何となく見てはいけないもののような気がして、ちょっと焦る。
考えた末、何も見なかったことにした。
私はくるりと身体の向きを変えてダンボール箱に寄りかかった。書籍がたっぷり詰め込まれたその箱には充分な質量があり、多少体重をかけたところでそれは動かなかった。荷ほどきは少し休んでからにしよう。私は目を閉じ、それからちょっとだけ眠った。
継実は一時間後に帰ってきた。道に迷ったらしい。彼女はコンビニのビニール袋を手に提げていた。お詫びのつもりなのか、帰りにコンビニに寄ってアイスを買ってきたという。
長時間の移動で疲れたのか、楕円のメガネの奥で猫のような釣り目が眠そうに瞬いていた。髪はロングのストレート。派手な服装は好まず、アクセサリーの類を身に着けているところを私は見たことがない。悪く言うと地味、よく言えば清楚で真面目。あくまでも外見は、だけど。
継実は三つ年上の私の姉だ。現在は大学の教育学部に通い、小学校の教師を目指している。
継実から商品を受け取ると、パッケージを開けて中からソーダ味の棒アイスを取り出した。先端をかじりつつ、私は継実に言った。
「通えない距離じゃないんだから、帰ってこればよかったのに」
継実はふるふると首を横に振る。
彼女は入学当初から学生寮で生活していたのだが、居心地が悪すぎて早く脱獄したいと常々思っていたらしい。一年生のときよりはバイトを増やせそうだということと、たまたま優良物件を見つけたということが重なり、夏のこのタイミングで民間アパートへ引越しをすることにしたようだ。ただし八月の引っ越し料金は高額になりがちなので、引越しの手伝いに妹の私が駆り出されたというわけである。
継実の通う大学の最寄り駅は札幌駅。実家は札幌市の北側にある手稲区という地区にあり、大学への通学時間は電車を使えば片道三、四十分程度だ。別に通えないわけじゃない。格安の学生寮ならともかく、経済的には下宿の方が不利だろう。
「冬は雪で電車が止まるときもあるし……」
継実がごにょごにょと言う。
雪の多い札幌の街には地下鉄の路線が血管のように張り巡らされているが、実家のある手稲区と札幌駅を結ぶのはJR線しかない。確かに冬の時期は降雪で電車が停まるときがある。
「大学生は九月まで夏休みなんでしょ。お盆すら帰ってこなかったじゃんか。夏休みの間だけでもいいから帰ってきてよ。知っていると思うけど、りっちゃん、全然家事しないし。私独りだと、いろいろ大変なんだから」
りっちゃんというのは、私たち姉妹から見た叔母のことで、本名を七森律子という。私たちの育ての親でもある。気づいたら酒を飲み、気づいたら服をあちこちに脱ぎ散らかして惰眠をむさぼるような超絶適当な人間なので、家の中はいつもひどい有様だった。
「そういうことなら……、九月になったら、少しだけ帰省する」
継実は今にも消えてしまいそうな声でそう言った。
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