第四章 理学部E棟の地縛霊

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 自宅に到着したときには二十時を回っていた。門をくぐり、敷地に入ると、私たちの帰宅を察知したメーテルが庭と通路の境まで寄ってきて吠えた。柵に前足をかけて、ひょっこりと顔を出す。私はメーテルの頭を撫でてから扉を開けた。「ただいまぁ」と呼びかけるものの返事はない。脱いだ靴をそろえようと身を屈めたところで、見たこともない男物の靴があることに気づく。  洗面台で順に手を洗い、そのまま二人で居間へ向かった。扉を開けると、食卓の椅子に腰かけていた人物と目が合った。 「樋口さん?」 「やぁ、お邪魔してるよ。ヒナミちゃん」  樋口はもじゃもじゃのあごひげを掻きながらそう言った。  真新しそうな白シャツに紺色のジャケットと、いつもの薄汚れたグレーの作業着からは想像もできないくらい清潔感のある服装を身にまとっている。彼の横には律子が座っており、煙草をふかしていた。 「りっちゃん! なんで煙草!」  聞こえていたはずだが律子はしらんぷり。珍しく酒を飲んでいないのはいいけれど、せっかく最近禁煙がうまくいっていたと思っていたのに台無しじゃないか。私はキッチンへ回り込んで換気扇のスイッチを入れた。  私と継実は食卓の椅子に座り、彼らと向き合った。まるで入学試験の面接みたいな重い空気が漂う。今からどんな話が切り出されるのか想像もできず、身体が緊張する。 「お前たちの父親のことだ」  開口一番に律子がそう言った。 「お前たちに話そうと思う。いいな?」  いいなと言われても、隠していたのはそっちじゃないかという言葉が口から出かかる。突っかかったらまた話が飛びそうなので、私は頷くだけに留めた。  律子が樋口に目配せすると、彼はかしこまった様子で話し始めた。 「実は僕は、君たちのお父さんの高校・大学時代の同級生なんだ。律子ちゃんとは、君たちのお父さんとお母さんが結婚してから知り合って、それ以来仲良くしてもらってる。だからね、ツグミちゃん、ヒナミちゃん。僕たちは初めましてじゃなかったんだよ」  私は唖然としてなかなか言葉が出なかった。  冷静に考えてみれば父が失踪して何百年も経っているわけではないのだから、父のことを知っている人がいても不思議ではない。けど娘の私だって父のことをすっかり忘れているのだから、きっと父はほとんどの人から忘れ去られているに違いない、という勝手な思い込みがあっただけに、親族以外の人で父を知っている人が現れた時点でちょっとした事件である。そしてその知人が樋口であるということが驚きを倍増させた。  できすぎた偶然に驚く一方で、健全な(という表現は不適切かもしれないが)律子との関係性が明らかとなり、肩の力が抜けた。私は穴の開いた浮き輪のように思いきり脱力した。 「私はてっきり、樋口さんとりっちゃんが、怪しい交際をしているのかと……」 「ああん? なんでそうなる」 「だって、家計簿が……」  私がごにょごにょと言葉を濁すと、律子は不審そうに眉を上げた。  先日、遺品整理の際に二年前の家計簿を発見し、そこに不可解な収入があったこと、そして律子と樋口の密会現場を目撃したことを説明する。それらの事実を勝手に結び付け、二人の間には公言できない不純な関係があるのではと想像した、と白状すると、律子は大口を開けて笑い出した。 「想像力がたくましいな。こんなおデブのおっさん、興味ないね。第一、こんなオバサンがパパ活なんてできるわけがないだろ」 「ちょ、ちょっと律子ちゃん。そりゃないよ。まぁ、確かに太ってはいるけど……」  樋口が空笑いしながら律子に抗議する。このやりとりで二人の力関係を何となく理解した。 「お前たちが見た『手当』は、想像の通り国から支給された里親給付金のことだ。ちなみに『生活費』も手当の一種。ただしこれはお前たちが生活をするために支給されるお金だから、子ども名義の口座で別管理する必要があるんだよ」  なんだ、つまり男ではなく国からもらっていたってことか。  律子が樋口と交際している姿をあまり想像ができなかったし、仮に本当にパパ活をしていたとしたらその現実を受け入れられる自信がなかったので、それを聞いてほっとする。しかしずぼらな律子がきちんとお金を管理しているのは、それはそれで意外だった。 「本当は、このことを教えるのはヒナミちゃんが高校を卒業したときって決めていたんだよ。だけど最近、君たち姉妹と顔を合わせる機会も増えてきたし、もう隠しておく必要はないんじゃないかって律子ちゃんと相談していたんだ」  彼は手荷物の中からA4サイズの灰色の冊子を取り出した。厚さは約一センチで、全部で四冊ある。薄汚れた表紙には西暦と「活動記録書」の文字が記されていた。 「あ、活動記録書!」  彼は一九八六年の活動記録書をぱらぱらとめくり、あるページを開いて私たちが見やすいように向きを変えた。深みのある藍色を背景に、ガトーショコラにまぶした粉砂糖のように星が点々と浮かんでいる。写真の右側に、電波塔のシルエットがオブジェのようにそびえていた。  写真のタイトルは、こう。 『カシオペアの丘にて』 「これは君たちのお父さんが撮った写真。カシオペアの丘っていうのは石狩にある天体観測スポットだよ。君たちのお父さんは本当に星好きでね。天文部の活動以外の時間にも、独りでよくここに行っていたんだ。飽きもせずに下手したら毎週のように同じ場所で――」 「ちょ、ちょっと待ってよ。ちょっとストップ。なんで今なの?」  私がたまらずに樋口の話を遮ると、律子が灰皿にぐりぐりと煙草を押し付けて火を消しながら、にらみをきかせてくる。けど私はひるまなかった。 「私が昔からお父さんを探していたの、知ってるよね? どれだけ悩んだのか、知っているよね? でも親や環境のせいにするのはカッコ悪いし、りっちゃんの気持ちを考えたら不満なんて言えるわけがないから……だから、ずっとガマンしてきたのに……」 「おいヒナミ」  律子はケースの中からもう一本煙草を取り出しながら、猛獣のような低い声を出した。結構マジなトーンだ。普段なら言葉をひっこめるところだけれど、今日という今日は引く気はなかった。というより、勝手に言葉が出ていた。 「今さら、どんな人だったのか教えてあげるって? 何で今さら? 知っていたのなら教えてよ。何を理由にこそこそ隠してたの?」 「それを話すって言ってるだろ」 「お姉ちゃんも黙ってないでなんか言いなよ。不満だったんでしょ。私たち、それで――お、お姉ちゃん?」  継実に視線を投げ、そして私は言葉を失った。  継実は活動記録書を自分の方に引き寄せて、そこに掲載されている写真を食い入るように見ていた。そして真っ青に染まった唇をわずかに動かして、「カシオペアの……丘……」と写真のタイトルをゆっくりと読み上げる。その数秒後に彼女の両目からぼろぼろと涙が流れ出し、それはやがて重力に引っ張られて下に落ちた。  彼女の身に何が起きているのかわからずに私は狼狽えた。 「ヒ、ヒナは」  身体は正面を向けたまま首だけ回転させてこちらを向き、その無機質なビー玉のような瞳で私を凝視した。ヒートアップした感情が急速に冷却されていく。私は感情をやや抑えて彼女を見返した。 「ヒナは、私がお父さんを殺したって言ったら、どうする?」 「……え?」  意味不明な質問にプチパニックを起こしていると、律子が煙草を手に持ったまま固まり、うなった。じりじり、と煙草の先端が蚊取り線香の要領で灰に変わっていく。 「ツグミ、お前……」 「思い出した。あの日、あの時、この場所で……」  継実は開かれていた活動記録書をぱたりと閉じ、席を立った。 「律子さん、樋口さん。ごめんなさい。なかったことにしてください。私は何も聞かなかったし、何も見なかった。ヒナ、そういうことだから。この話はおしまい」 「は、はあ? ちょっと、それはないよ、お姉ちゃん」 「お姉ちゃんの一生のお願い。ヒナ、何も聞かなかったことにして。律子さん、樋口さん、それでいいよね? だって今までもそうしてきたわけだから」 「…………」  律子と樋口は無表情のまま何も返答をよこさない。 「お姉ちゃん、意味わからない。教えてよ、ねぇ」  彼女は私の懇願を無視して居間を出る。私も席を立ってその背中を追った。  継実は玄関でスニーカーに足を通し、かかとを踏んだままの状態で前に出て、扉を開けた。ドジな彼女は二つ目の飛び石に足を引っかけて前にずっこけた。私が駆け寄る前に彼女はすぐに立ち上がり、門の外へと駆けていく。  追いかけようとしたが、その背中が拒絶のオーラを放っていたため、私は途中で諦めた。  物音を聞きつけたメーテルが庭の塀に足をかけて私にきらきらした瞳を向けてくる。彼女の物欲しそうな態度を無視し、私は家の中に戻った。
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