第四章 理学部E棟の地縛霊

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 私が帰宅したとき、玄関には既に律子の靴があった。私がオカ研で油を売っている間に既に会社から帰ってきていたらしい。家の中を探し回り、元倉庫部屋で彼女の姿を見つけた。彼女はテツにご飯をあげているところだった。  照明は消えており、部屋の中は薄暗い。彼女の動作はどこか機械的で生気がなかった。心なしかどんよりとした雰囲気が漂っている。  私の気配に気づいた彼女が、いつもよりやつれた顔をこちらに向ける。目が合った状態で二、三秒の間が空いた。 「教えて。りっちゃん」  私は前振りもなく詰め寄った。律子は最初こそ口を割るそぶりを見せなかったが、「教えてくれなきゃ、もう二度とお酒なんて飲ませないよ」とお酒を人質に取ると、しぶしぶといった感じで折れた。   彼女はテツの頭を撫でながらつぶやくように言った。 「お前の父親は事故死した」  律子は話し始めた。まるで淡々とニュースを読み上げるキャスターのように。私は彼女の横に座り、じっと耳を傾けた。  父は、継実と二人でカシオペアの丘を訪れた際に事故死した。暗い駐車場を無警戒で歩いていた継実をかばう形で車と衝突したらしい。ぶつかった車はそこまでスピードを出していなかったらしいが、打ち所が悪かったらしく、すぐ病院に搬送されたものの翌日に亡くなった。  間近で父の死に触れた継実は、PTSD、摂食障害、不眠症を発症。おまけに自動車恐怖症になり道路に出られなくなった。治療を受けてもほとんど回復せず、まともな生活を送るのは困難になった。  母の立場で考えると、夫に先立たれた上に娘まで悲惨なことになり、かつ、まだ三歳だった私の面倒も見なければならないという状況が控えめに言っても地獄ということは親の経験がない私でも容易に想像ができる。母はそれでも決して投げ出さず、祖母や律子の助けを借りながら何とか日々を凌いでいたという。  継実は各症状に半年苦しんだ末、それまでの記憶の大半を失った。それが珍しいことなのかはわからない。彼女はもう二度と父の死を顧みて苦しむことはなかったが、それと引き換えに父に関するほとんどのことを思い出せなくなった。  このまま下手に刺激しない方がいいと周りが判断し、それ以来、七森家では父のことを話題に上げることはタブーとなった。祖母が妙な都市伝説を吹き込んだこともあって、継実は頭の中に「失踪」を思い浮かべることはあっても、具体的な死因を想像することはなくなった。ちなみに父が亡くなった当時、私は三歳。葬式も行ったそうだが、何もかも憶えていない。  母が床に伏し、娘たちの成人を迎える前に亡くなると、私たちに真実を語るも黙るも律子に委ねられた。当時の継実の悲惨な状況をその目で見て知っている律子としてはこのまま墓場まで持っていくつもりだったらしいのだが、最近継実が自身の記憶が消えた原因を調べていることを察し、また樋口のプッシュなどが重なって、打ち明けるに至ったということらしい。 「たぶん、幼いながら責任を感じたんだろうな」  ご飯を食べ終えたテツがぺろぺろとお皿をなめている。しばらくすると、彼は皿から顔を上げてもっとよこせと鳴いた。 「お前は意外と大丈夫そうだな」 「私は、別に。お姉ちゃんがお父さんを刺し殺したとかだと、さすがにショックが大きかったかもしれないけど」 「すまない、ヒナミ。今まで大変だっただろう」  私は首を横に振った。 「りっちゃん、話してくれてありがとう。辛かったよね」  私がそう言うと、律子の顔がくしゃくしゃにした紙のように歪んだ。彼女が抱える悲痛な気持ちが手に取るように伝わってくる。律子のこんな顔を見るのは母の葬式の日以来かもしれない。 「言いたくても言えなかったんだね。ごめんね、私、酷いこと言った」  その瞬間、律子がタックルするように衝突してきて、私は後ろにのけ反った。彼女はそのままいつかのように私を優しく抱き留める。接触している部分が温かくなり、私はほほを緩めた。 「ヒナミ」 「なに?」 「でかくなったな」 「あのね、りっちゃん。背が低いこと、私、今も結構コンプレックスなのよ。身長分けて。百七十もあるんだからいいでしょ」 「ばかか。これ以上でかくなってどうする」  私は律子から離れると、その場から立ち上がった。 「お姉ちゃんのことは任せといて。私が何とかする」  さんざん今まで助けてもらったんだ。  今度は、私の番。
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