第四章 理学部E棟の地縛霊

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 私は制服の恰好のまま外に出て、自転車をかっ飛ばして駅に向かった。前からびゅうびゅう顔に吹き付ける風と、西日のまぶしさに耐えられなくて目を細めた。  札幌駅に到着すると、早歩きで継実のアパートまで向かった。電車に乗っている間にすっかり陽は落ちて、空は宇宙の色に近づいている。陽が落ちると気温がぐっと落ち、私はくしゃみをした。そろそろ十一月に突入する。あと一か月もすれば雪が降り出すだろう。そうなればあっという間に札幌は雪に埋まり、文字通り別世界になる。もうすぐ、冬が来る。  アパートに到着し、呼び鈴を押す。だが応答がない。スマホのアプリでメッセージを飛ばしてみたがずっと返信がないままだった。ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかない。ダメ元で取っ手をひねってみる。無警戒にも部屋の鍵は開いていた。  部屋の電気はついておらず、暗かった。まさか首を吊っていないよなと一瞬不安になるが、彼女は寝室のベッドの端っこで体育座りをしながらちゃんと息をしていた。冬眠中の昆虫みたいに少しも動かない。彼女は私に気づくと驚いたように身体をびくりとさせた。顔はげっそりしていて、健康とはかけ離れた表情をしている。 「ごめん、お姉ちゃん。りっちゃんから全部聞いた」  私は彼女の隣に座り、そう言った。  しばらくは何も言葉が返ってこなかった。私も先を急がずじっと相手の返答を待った。人の言葉はその場から失せ、時折外から聞こえてくる車の走行音以外の音はなかった。 「私が言ったの。星が観たいって」  継実は私に目もくれず、虚空を見つめたまま独り言のように言った。耳を口元に近づけないと聞き取れないほど弱々しい声量だった。 「私が家族を不幸にしたの。お母さんも、ヒナも、みんな大変そうだったから、私がなんとかしなきゃって思ったの。でも違った。私がそうさせた。私が、疫病神だったの。私が家族をダメにした張本人だったの」 「お姉ちゃん」 「しかも都合よく忘れてた。都合よく罪を忘れてのうのうと生きてきた。私のせいで悲惨なことになったのに」  今の継実はたぶん、過去に起きた悪い事象の原因が全て自分にあると思い込んでいる。逆の立場なら私もひょっとしたらこうなっていたのかもしれない。でも、事故が起きたのは何年も前のことだ。時間は巻き戻らないし、いま私たちがやるべきことは後悔ではないはずだった。  私は継実の手を取った。深呼吸をする。 「両親がいないことで苦しい思いをしてきたことは確かに数えきれないほどあるし、シンママのお母さんもきっと死ぬほど苦労した。りっちゃんは現在進行形で私たちを必死に育ててくれている。きっと私たちが思っている以上にきついよね。でも、それがなければ得られなかった幸せもたくさんあるんだよ。お姉ちゃんが言ったんだよ。失ったものよりも今ある大切なものに目を向けたいって。私、その言葉今でもずっと心に残ってるんだ。ねぇ、顔を上げて。お願いだから」  私は両手を彼女の左右のほっぺたに添えて、強引に顔を前に向かせた。 「私たちはこれからきっと何度も失敗する。取り返しのつかない失敗も中にはあるかもしれないね。きっと何度も何度も傷ついて、何度も泣いて、何度も絶望を味わうことになるんだろうね。今までがそうだったように。でも、……お姉ちゃん。お願い、だから……お願いだから、勝手に、私を……不幸にしないで」  なぜか私まで涙が出てくる。でもまだ泣いちゃだめだ。伝えないといけないことがある。今、どうしても伝えたいことがある。鼻をすすり、私は涙をひっこめた。 「私はこうしてお姉ちゃんの妹になれて幸せだし、お姉ちゃんとの生活を守ってくれたりっちゃんのことも大好きだよ。病気で死んじゃったけど、お母さんはお父さんのぶんも私たちを大事にしてくれた。りっちゃんがいなければ、たぶん私たちはこの土地にいないし、そうだとしたらきっとミチルとも会えなかった。コスモや樋口さんと出会って夜空を見上げることもなかったかもしれない」  私はここ数か月で起きた出来事を頭に思い浮かべながら言った。そこには間違いなく不幸なんてなかった。 「お姉ちゃんはいつも私を助けてくれた。どうしようもなく孤独でさみしかった私を救ってくれたのは他でもないお姉ちゃんだよ。あのときの気持ちを、お願いだから不幸と呼ばないで」  彼女の両目からぼろぼろと涙がこぼれてきて、ほほに添えていた私の手を濡らした。 「ねぇ、お姉ちゃん。私、今、ちゃんと幸せだよ」  私がそう言うと、継実は両手を私の背中に回して、涙で濡れた顔を胸に押し付けてくる。そしてアニメのようにわんわんと泣いて、私の制服をじんわりと湿らせた。継実の泣き声を聞いているとなぜだか私の涙腺まで緩んでくる。私はそっと継実の細い身体を抱き締め返し、しばらくその格好のまま二人して泣いた。  母が亡くなってから七年経った。私は高校生になり、継実は大学生になった。今の私たちを見て母は何を思うだろう。父は何を思うだろう。恨むだろうか。嘆くだろうか。優しく見守ってくれるだろうか。応援してくれるだろうか。死者と繋がる電話があるわけでもないし、それはきっと永遠にわからない。  わかったところで、どうにかしてあげることはたぶんできない。できることなんてせいぜい曲がらずに生きることだ。それが私たちにできる唯一の、両親への手向けのはずだった。  継実の状態が落ち着いたのを見計らって私は言った。 「私、明日も学校あるから帰るけどさ。またりっちゃんと三人でご飯でも食べに行こうよ。りっちゃん、死にそうな顔してた」  継実が静かに首肯するのを確認し、私は立ち上がった。早く帰らないと遅くなる。  玄関でローファーに足を突っ込み、扉の取っ手に手をかけた。疑問が一個だけ解決していていないことに気づき、ふと身体の動きを止める。 「そういえば、結局、赤い光って何だったんだろうね」
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