第一章 囁きの片道トンネル

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 八月三十日、夜。  リュックを地面に下ろし、中からボトルクリッパーを取り出した。全長五十センチくらいの、鉄線や銅線用の巨大ハサミである。フェンスが開いていなかったときのために、ホームセンターに陳列されていたものの中で比較的大きなものを事前に購入しておいたのだ。  肩に担いでいたアルミ製の小さい脚立を置き、上に乗って身長を嵩増しする。小型のペンライトを口にくわえて手元を明るくしつつ、張り巡らされている有刺鉄線の一本をクリッパーでバチンと切断した。   すると、うしろに控えていた継実が抗議の声を上げた。 「何してるの。ダメ、そんなことしたら」 「大丈夫だって、少しくらい。バレやしないって」  片道トンネルから実家まで、往復で二時間はかかる。遅くなった理由を律子に説明するのも面倒なので、事が済んだら、捜査結果の報告がてら継実のアパートへ転がり込むつもりでいた。当初は独りで行くつもりだったのだけど、昨晩、計画を継実に伝えたところ、かわいい妹が独りで夜道を歩くのは危ない、という理由で継実も現場に同行することになった。  ついでに、こういう話が大好きなオカルト研究会のミチルも誘ってみたのだが、夏休みの宿題の追い込みがあるとかで断られた。おおむね予想通りではある。  張り巡らされていた有刺鉄線を一通り刈り取ると、脚立から下りてリュックを背負った。フェンスをよじ登り、そのまま乗り越えて地面に下りる。フェンス越しに継実の方を見た。 「じゃあお姉ちゃんも」 「…………」  継実はふるふると首を横に振る。 「しょうがないなあ、じゃあお姉ちゃん、そこで待ってて。私、ちょっと行って確かめてくるから」  ペンライトだと光量が充分ではないため、リュックの中から懐中電灯を取り出して電源を入れた。トンネルに近づき、懐中電灯の白色光で中を照らす。  この辺りは標高もそこそこ高いので、八月中とはいえ夜の時間帯は半袖で過ごすにはちょっと寒い。トンネル内部から漂う冷気に当てられて、全身にぞわぞわと鳥肌が立った。  リュックからデジタルビデオカメラを取り出し、起動させる。これでばっちり怪しい現象を撮影してやるのだ。左手に持った懐中電灯で前方を照らし、右手のカメラで撮影、という状態をキープしてトンネルの中に足を踏み入れる。思ったより天井が近い。  懐中電灯で照らしながら撮影するという行為は意外と神経を使い、自然と歩みは遅くなる。スニーカーの底で地面をたたく音が不気味に反響する。今のところ赤い光も見えないし、囁き声とやらも聞こえない。  背後から肩をたたかれて手元がぶれた。突然のことだったので心臓が口から飛び出そうになる。とっさに懐中電灯を背後に向けると、いつの間にかすぐそこまで接近していた継実の顔が光に照らされた。 「わ! びっくりしたぁ。お姉ちゃんか。なんでついてきたの?」 「……その」 「というか、なんでこんなに泥んこなの?」  継実は恥ずかしそうにうつむいた。たった数メートルの距離しかトンネルを進んでいないはずなのに、彼女は全身泥だらけだった。運動神経が壊滅的な継実のことだから、フェンスを乗り越えるときに転んだのかもしれない。 「私も、行く」 「……もしかして、独りで待っているのが怖いとか?」 「妹を守るのは姉の責務」  どんと胸を張り、名言のように言い放つが、説得力は無に等しい。 「ちょうどいいや。じゃあ、カメラ回しといて。撮りにくいから」  そう言いつつ継実にカメラを押し付ける。彼女はおっかなびっくりそれを受け取って、レンズを進行方向に向けた。
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