第一章 囁きの片道トンネル

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 歩きながら、なぜこんな遅くの時間帯に忍び込む必要があるのかと継実が尋ねてくる。   理由の一つは私有地への侵入を目撃されたくなかったから。いくら人通りが少ないとはいえ、日中の方が誰かに目撃される可能性が高い。  そしてもう一つの理由は――、 「私が思うに、たぶん新月が関係しているんだよ」 「新月?」 「うん。フェンスが開いているところを芦原少年が目撃したのが八月三日。八月三日は新月なんだ。柴犬のサリーちゃんが失踪したのが七月の頭。もしかしたらその日も新月だったんじゃないかな。だとしたらトンネルが冥界への入り口になっているっていう噂もあながち間違っていない気もするんだよね。新月は人の死と関わるって言われているしさ」 「ねぇヒナ、今日ってまさか」 「うん、新月」 「帰ろう。帰ろう、ねえヒナ、帰ろう。帰ろう」 「本当に冥界に行けるなら、面白そうじゃん」  火の玉に関しては地域によっていろいろな言い伝えがあるが、「火の玉=死者の霊」と解釈されることがやはり多いだろう。トンネルが冥界の入り口になっているのなら、そこで火の玉を見かけるのはそこまで不自然なこととも思えない。  そして芦原が耳にした囁き声というのは、冥界からさまよい出た死霊の声と考えると都合がいい。霊感の強い人間には聞こえるとか、きっとそんなんだ。  継実は私の上着のすそをつかんで前進を妨害しつつ、怯えた表情でぶんぶんと首を横に振っている。あまりに猛スピードで首を振るので、今にもその細い首から上が飛んでいきそうだ。 「落ち着いて。まだ決まったわけじゃないよ。実際、新月の夜にはフェンスが開くって予想していたけど、いざ来てみるとフェンスは閉まったままだったし――」  そのとき、前の方でバサリと洗濯物をはたくような音がした。思わず歩みを止める。音はトンネルの奥の方から猛スピードでこちらに近づいてきて、そのまま頭上を通過して入り口の方面へと駆け抜けていく。よく見るとそれはコウモリだった。 「わぁ、びっくりした。コウモリか。……あれ? お姉ちゃん?」  いつの間にか、そこにいるはずの継実の姿がない。懐中電灯の光をあちこちに照射して確認する。彼女は預けていたビデオカメラを放り出してその場にしゃがみこんでいた。安物とはいえ、少ないお年玉で買った貴重な撮影機材。慌てて拾い上げて動作を確認したところ、幸い壊れてはいないらしい。私はげんなりした。  私は継実の腕をつかんで強引に立たせ、先を急いだ。しかし継実がぴたりと私の背中にはりついてくるせいでうまく歩けない。 「お姉ちゃん。ちょっと歩きにくいんだけど。もう少し離れて。引っ張らないで」 「何も。ええ、何も引っ張っていない」 「お姉ちゃん、ちょっとやめてってば。ホントにやめて」  歩くたびに互いの足がぶつかるのが嫌で継実と距離を取るが、油断すると相手はすぐにくっついてくる。つかず離れずを繰り返しているせいで、前に進みたくてもなかなか進めない。こんなことになるなら、いっそ連れてこなければよかったと後悔した。 「ねぇ、なんか、聞こえない?」  へたくそな社交ダンスのように一進一退を繰り返していると、耳の鼓膜にかすかな音が引っかかる。足を止め、息を殺す。トンネルの奥の方から誰かが囁いているような音がする。誰かが小声でしゃべっているようだが、会話の内容までは聞き取れない。 「ヒナ……うしろからも」  継実がそう言いつつ振り返り、来た道を指さした。継実の言う通り、背後から規則的な音がこちらに向かって近づいてくる。トン、トン、トンとまな板で野菜を刻むような音と、タッタッタッタと小走りで地面を踏むような、リズミカルな音が重なっているようだ。これは……足音?  思わず継実と顔を見合わせる。彼女の目は涙で潤んでいた。 「お姉ちゃん、逃げるよっ」  もしかしたら管理人がフェンスを開けて中に入ってきたのかもしれない。普通に器物損壊と不法侵入という犯罪行為をしているので捕まったらいろいろまずい。  近づいてくる足音から逃れるように、トンネルの出口へ向かって全力で走り出す。しかし走り出して数秒後に、ずさあ、と野球部員がグラウンドでスライディングするときのような音がした。案の定、継実がずっこけている。 「立って! 早く!」  継実の腕を強引に引っ張って立たせようとするが、ぬかるんでいる地面に足を取られてバランスを崩してしまった。どてん、と私まで尻餅をつく。地面に溜まっていた水がズボンの生地を通過して下着にまで染みてくる。慌てて上体を起こすと、ちょうどそこに継実の頭があって、おでこ同士がごちんとぶつかった。  そうこうしているうちに、背後の足音はすぐ近くまでやってくる。万事休す。諦めたところで、足音の主が叫んだ。 「ワンっ!」  ……ワン?
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