終章

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「倫太郎、早く退院してよね。師匠も塾で待ってるよ。それに妹もお兄ちゃんがいなくてさみしそうにしてたから」 「ちょ、ばか、歩」  歩が冗談めかしてそう言うと、倫太郎はからからと笑った。   倫太郎の自然な笑みを見て、私は心底安堵した。一時はどうなることかと思ったし、まだ退院までには少し時間がかかりそうだけれど、こうしてまた笑い合えるようになって本当に良かったと思う。本当に良かった。本当に。 「思い出したことがある」  ひとしきりとりとめのない会話を楽しんだあと、私と歩は家路につくために椅子から立ち上がった。その折に倫太郎が改まった口調でそう告げる。彼の真剣な表情を見て、私たち二人は思わず身構えた。 「なに?」 「お前に頼まれていた『これ恋』の複製原画、まだ塾に置きっぱなしだった」 「ばかじゃないの。そんなの、どうだっていいよ」  というか、もう回収したし。どうでもよすぎて、全身から一気に力が抜けた。    病室を出て、バス停に向かった。  外は相当蒸し暑かった。  頭上の太陽は、我が物顔で灼熱の光線を大地に降り注いでいる。梅雨が明けてからというもの湿度はうなぎのぼりで、蒸し料理の食材ってこんな気持ちなのかなと私は想像した。  来週からいよいよ夏休みだ。  私は「夏休み」という単語を思い浮かべた途端に表情を曇らせた。楽しみではあるが憂鬱でもあった。期末試験で数学ⅠとAの両方で赤点をとってしまったので、補講に出なければならなくなったのだ。クラス最下位だぞ、と古屋に言われている。  バス停につくと、青色のベンチに腰を下ろす。日陰になっているが、暑くて汗がほほを伝った。 「最近ついてないよなあ」  気づいたら私はぼやいていた。  余談になるが、自ら幹事を務め入念に用意していたバスケ部の追いコンが、昨日行われた。だが私はやむを得ず欠席した。医者から問題ないと診断されたのは事実だが、実は昨日まで気分がすぐれなかったのだ。準備や当日の進行は全て西園が引き継いでくれたため、中止にならずに済んだものの、あとから送られてきた写真を見てさみしい気持ちにもなるのだった。早くも面白そうなイベントを逃してしまった。挽回せねばなるまい。 「数学の補講が憂鬱すぎるなあ。クラスで私一人だけだって。信じられる? 一人だけだよ? みんな楽しく夏休みを過ごしているときに、一人だけ制服着て学校に行くだなんて最悪。せめて誰か他に一人でもいいから、いっしょに補講を受けてくんないかしら。ねぇ歩、いっしょに行かない?」 「いいよ」 「……へ?」 「というか、行くつもりだよ。補講の内容なんてどうでもいいけど、単位が足りるか微妙だし。古屋先生に相談したら、とりあえず補講に来いって。それでなんとか出席したことにしてくれるみたい」 「ちょっと待って、それってつまり」 「うん。学校に行く」 「えー! ど、どうしたの? 心変わりしたの? 恐怖症は?」 「もちろん治ったわけじゃないよ。最初はまた倒れちゃうかもね。授業もつまらないし、友達なんていないし、嫌なことだらけだけど、いろいろ考えて高校は行くことにした。イチカ、危なっかしいし。僕がそばで見てあげないと、また拉致されてテープでぐるぐる巻きにされちゃったら嫌だしさ。もう泣かせたくもないし」  「別に泣いたわけじゃ、いや確かに泣いたけど、あれはそもそも私が軽率だったというか……その、ちょっと警戒を怠ったというか……」  私は反射的に言い訳めいたことを並べつつ、年甲斐もなくガン泣きしたことを思い出す。急激に恥ずかしさがこみあげてきて、それと同時に顔面の温度がぐんぐんと上昇するのを感じた。両手を合わせて懇願する。 「お願いだから忘れて。お願い」 「結構、カワイかったけど」  そう言われた瞬間に、彼の脳天にチョップをお見舞いした。 「いったぁ……」 「いいから、絶対忘れてよね。せめて誰にも言わないで」 「わかったよ」 「で、動機ってそれだけ?」 「五割くらいかな」  赤くなった額をおさえながら、歩がそう答える。 「残りの五割は?」 「それは、まあ、おいおいね」  そこでバスが到着した。扉が開き、カードリーダーにICカードを当てて私たちは車内に乗り込んだ。空調ががんがんに効いていて、火照った身体がすぐに冷却されていく。車内はすいており、老夫婦が前のほうで座っている以外に人はいなかった。  私たちは二人で最後部座席を陣取って、新庄家の最寄り駅につくまでとりとめのない会話を続けた。歩が「イチカの試合を見に行きたい」と言うので、練習試合の日を教えた。ただ追試をクリアしないと試合には出られない。かっこいいところを見せるためにも、手を抜くわけにもいくまいな、と気を引き締めるのだった。
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