第一章 転落シミュレーション

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第一章 転落シミュレーション

 学校から帰宅し、家の中に入るとカレーのにおいが鼻を突いた。 「うげぇ、今日もカレーか……」  毎日のようにカレーを食べているせいで口内はその味が染みついている。別にカレーが嫌いというわけではないが、さすがに飽きていた。  たぶん弟のおねだりに母が根負けしたんだろう。弟の(れん)は一つの食べ物にハマるとそれ以外のものを食べなくなるという困った性格の持ち主で、そのせいで篠崎家の食卓に並ぶメニューは連日同じものとなることが珍しくない。  キッチンに立つ母の表情は暗い。ここ数日でびっくりするくらいやつれてしまい、十歳くらい老け込んだように見える。よく見ると目の下にクマがあり、肩まで伸びるブラウンの髪の毛はぼさぼさのままだった。  ただいま、と言っても返事がなかった。本当は落ち着いて料理ができるような精神でもないが、蓮のわがままを聞かないとそれはそれで大変だからやむを得ず夕飯を作っている、といったところだろう。  私は二階の自分の部屋に荷物だけ置いて、着替えもせずにすぐにまた階段を下りた。母に「ちょっと出かけてくるね」とだけ言うと、そこで娘の存在に初めて気づいたのか、彼女は驚いたような表情で「イチカ、帰っていたの」と返した。 「ねぇ、ちょっと休んだら?」  そう声をかけたものの、彼女は「そうも言っていられないでしょ」という表情を作るだけだった。  何を言っても無駄なことがわかり、私はあきらめて再び玄関に向かう。少し気が急いていた。暗くなる前に帰ってきたかった。 「ねえ、お姉ちゃん。これ解いてみて」  玄関でエナメルのローファーに足を入れている最中に、後ろから唐突に声を掛けられる。そこに立っていたのは弟の蓮だった。何やらぺらぺらの紙を突き出してくる。  蓮は今年で七歳。ぴかぴかの小学一年生だった。   よちよちと歩いていたときと比べるとずいぶん大きくなったが、同級生と比べるとその身体はやや小さい。ほっぺたはまるでおもちのようにぷっくりしていて、ほんのり赤く染まっていた。髪の毛の色素は脱色剤を使ったんじゃないかと思えるほど薄い。髪質はふわふわしていて、思わずなでまわしたくなる。チャームポイントのくりくりした目はまるで愛くるしい小動物のようだった。  私はどうしたもんかと頭を悩ませた。蓮は見た目こそ天使のようだがちょっと変わっていて、パズルやらクイズやらをせっせと量産しては、家族の誰かに解かせるという厄介な癖を持っていた。かまってあげないとこの世の終わりだと言わんばかりに泣いて暴れ出すという、悪魔のような子でもあった。 「うーん、お姉ちゃん、今からちょっと用事があるの。最近のレンが作る問題、めちゃくちゃ難しいし……すぐに解けないかなあ」 「お姉ちゃんが解けるくらい、簡単にしたんだ」 「なるほど、手加減してくれたのね」  蓮から紙を受け取り、そこに書かれている文字列に目を通した。文字は縦書きで、すべてひらがなだ。紙の左端がげじげじしており、自由帳の一ページを破ったものと推察された。  『うまんいるんつてとのをるらぱはよ』  なるほど、わからない。 「さて、今ぼくは何を身に着けているでしょう~? ヒントは四!」  渡されたその紙と期待に満ちている蓮の表情を見比べて、次に言うべきセリフを考えた。最初から解く気なんてないが、ストレートにそれを伝えると、気難しい蓮は、かんしゃくを起こす可能性があった。言葉は慎重に選ばなければならない。 「ねぇ、レン。これ、すごくよくできている暗号ね。絶妙に好奇心をそそられるような作りになってる。すごい。お姉ちゃんには絶対作れない。本当は今すぐにでも解きたいんだけど、お姉ちゃんは今から行くところがあるの」  見え透いた誉め言葉にもにっこりとほほ笑む蓮だったが、かまってもらえないとわかった途端、わかりやすくげんなりした。 「今日は部活がないから遊べる日じゃないの?」 「とっても大事な用事なの。お兄ちゃんのことだよ。お兄ちゃん、今、お家に帰って来られないでしょ。どうしてこんなことになったのかを、調べるために行くの」  遊び相手を確保できないと知った蓮は不機嫌そうだが、外出の目的が兄であることを聞いて少しわがままを抑えたようだった。 「じゃあ、帰ってきたら、遊んでよ」 「壁時計のハトが鳴くまでならね」 「お姉ちゃん、ぼく、もう時計なんてヨユーで読めるよ。いつまで子ども扱いするの?」 「そうだった。遊ぶのは夜の九時までね。それまで、なぞなぞごっこをしましょう」 「約束だよ」  私は蓮のふわふわの髪の毛をなでると、紙を折りたたんでスカートのポケットに差し込んだ。そして傘立てからお気に入りの黄色の傘を抜き取った。 「それと、レン」  扉に手をかけたところで振り返り、蓮と目を合わせた。蓮は顔を綻ばせる。邪気のない視線が今の篠崎家にとっては逆に凶器だった。 「わがまま言わずに、お母さんに力を貸してあげて。お姉ちゃんからのお願い。ね」  蓮はすっぱいものを食べたときのように口をすぼめた。「何を言っているのかわからない」と顔に書いてある。死ぬほど空気の読めない蓮は、まだ、家庭で起きている事態の深刻さを理解できていない。
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