29人が本棚に入れています
本棚に追加
/78ページ
終章
その日、私は部活帰りに新庄家を訪れた。呼び鈴を押すと、例によって不老の見た目をした沙織が玄関先に出てくる。彼女は私と目を合わせるなり屈託のない笑みを浮かべ、唐突にこう言った。
「私ね、最近メールを覚えたの。ねぇ、メールアドレスを教えてくれない?」
「え? メールアドレス? 今はチャットアプリしか使わないんだけど……」
「え? イチカちゃん、メルアド持ってないの?」
「いや、フリーメールのアドレスなら持ってるけど」
「スリーメール? 三つも持ってるの?」
「いや、あのね」
沙織の誤解を解くのはそれなりに根気のいる作業だった。もっともいくら誤解を解いたところでメルアドがほぼ化石になっていることは理解してもらえなかったので、やむを得ずフリーメールのアドレスを教えた。彼女は「やったあ。これでメル友が増えた」と無邪気に喜んだ。
メル友ってきょうび聞かないしもはや死語だけど、おばさんがうれしそうなのでいっか。私は内心そう思った。どんなメールが来るか楽しみでもあり、ちょっと恐怖でもあった。
歩の部屋に足を踏み入れたとき、彼は例によってパソコンにかじりついていた。歩の後ろでは扇風機が最強の風力で首を振っていて、彼のモスグリーンのシャツをはためかせている。
歩は充血した目で私を見ると、いつもの口調で言った。
「やぁ、イチカ。いらっしゃい」
「うん。おじゃま」
「怪我はどうなの? 大丈夫?」
「病院に行ったけど、問題ないって」
事件から約十日が過ぎていた。
ふとあのときのことを思い出し、私は身体を強張らせた。あのまま歩たちが助けに来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。ひょっとしたら殺されていたかもしれない。あのときの石島だったら大いにあり得ただろう。
あの後しばらく石島は暴れたそうだが、千尋の説得によってひとまずその場はなんとか収まったらしい。翌日には千尋と高坂がそろって自首をした。石島は最後まで無罪を主張したそうだが、最後にはあきらめて犯行を認めたようだった。
今回のカンニング騒動の主犯は千尋で、指定校推薦で大学に進学するための内申点の向上が犯行の主な動機だった。
千尋が一年生のときに、受験に対する精神的プレッシャーによって、歩と同様に試験恐怖症という症状に陥ってしまったのが事の発端だった。このままでは受験以前に普通の試験すらまともに受けることができない。そこで考えたのが指定校推薦だった。指定校推薦の枠を勝ち取ってしまえば、小論文と面接だけで試験をパスできる。
そのためには日ごろの成績が良いこと、部活や学校行事などにも手を抜かず模範的な生徒である必要があった。もちろん試験恐怖症である以上はいい成績が取れるはずがないため、千尋は高坂と結託し、試験問題を事前に入手することによってその問題をクリアすることを目論んだ。歩と同様、職員室の未使用のハブにルーターをとりつけ、外部からサーバーに無断アクセスすることで試験問題のデータを入手したという。
昨年の初冬にその犯行を石島に知られてしまったときは年貢の納めどきだと悟ったそうだが、それまでバスケしかしてこなかったために成績が低迷していた石島は「チクられたくなかったら仲間に入れろ」と脅迫し、そこから三人体制で犯行を繰り返したらしい。
石島は実績のある指導者の下で結果を出し、バスケ一本で大学進学を考えていたものの、指の怪我でそれを断念。利き手の人差し指と中指の故障のせいでペンすらまともに持てず、受験生としても致命的なハンデを抱えることになった。絶望していたところ千尋の犯行を偶然目撃し、「推薦狙い」に便乗したというわけだ。
ちなみに倫太郎と面識はほとんどなく、「煙草をふかしていたところを撮られた」は真っ赤なウソだという。
最初のコメントを投稿しよう!